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「政治エンタメ映画」の確立に挑戦するダースレイダー氏×プチ鹿島氏

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
宣材写真より(許諾済)、ダースレイダー氏(左)とプチ鹿島氏(右)

・政治や選挙をエンタメ化するという試み

 政治をエンタメ化するという試みは、昨今亢進する低投票率に伴い、官民あげてますます盛んになっている。ここでいうところのエンタメ化とは、「自分が投票所に行って投じる1票では何も変わらない」という有権者全般に瀰漫する諦観へのテコ入れにほかならず、よってこれに資するために曰く芸能人やアイドル、ユーチューバーなどを動員して官民が各種の国政選挙や地方選挙での投票率の掘り起こしに躍起になっている。

 日本国憲法が謳う選挙権を保有する公民は、本来前述したエンタメ化が存在しようがするまいが、一票を投じる権利を持っていると同時に、また明文化されていないが暗黙に民主主義形成に参画する義務的な規範を有していることは自明である。よって、いかに芸能人やアイドルが動員され投票行動を惹起させる演出があろうとなかろうと、それに関係なく一票の意思表示をするべきであるというのは本筋であるが、ことほど左様に余りにもむごい低投票率が現出している現状を鑑みると、このような表層的な「お祭り感」を演出するのは、やむを得ないところでもあろう。

 しかし本来、選挙はエンタメであり祭りそのものである。国政・地方に関わらずあらゆる選挙戦には、それが無投票でない限り必ず候補者同士の競争ないし狂騒と思慮遠謀、権謀術数の渦巻くところであって、もはやそれ自体が面白く滑稽なのである。つまり現在政治のエンタメ化は、投票所に有権者を連れていく間口の演出のみを派手目にしている単なる「飾りの演出」にすぎない。そういうのは「祭り感」とか「エンタメ感」を演出しているだけであって本当のそれとは遠い。選挙に奔走する人々の偽りのない姿そのものがもはやあらゆる意味でのエンタメとして成立しているのだ、というしいて言えば当たり前のことを忘れているのではないか。

・候補者の「あさましくもがく姿」こそ最高のエンタメ

宣材写真より(許諾済)、ダースレイダー氏(左)とプチ鹿島氏(右)
宣材写真より(許諾済)、ダースレイダー氏(左)とプチ鹿島氏(右)

 よくも悪くも様々な候補者の欲望、つまりそれは―当選するという絶対目標に対し、あるいは敗北を予感しつつも「より良い負け方」を追求しようと奔走し、やがて恥も外聞もなくその欲望に猪突する候補者とその陣営の、よく言えば情熱的な、悪く言えば「あさましくもがく姿」こそ最高のエンタメなのである。

 政治は、選挙は、最高の祭りでありエンタメである―。このような構想の下、ラッパーのダースレイダー氏とお笑いタレント・時事芸人のプチ鹿島氏が監督を務め、2023年2月に公開されたのが『劇場版 センキョナンデス』である。これぞ「政治とは、選挙とは元来エンタメであり祭りである」という真実を見事に切り取った作品であると言えよう。両監督がMCを務め、ユーチューブ番組として配信している『ヒルカラナンデス』のスピンオフという体であるが、この前段を知らなくても十分に映画作品としての完成度が高いうえに、完全な時の偶然ではあるが安倍晋三元総理銃撃事件の一報に動揺する野党議員の偽らざる「素の表情」がカメラに記録されている。初監督作品とはとても思えない白眉の出来栄えでまさしく「政治エンタメ映画」の誕生であると思った。

 この作品はポレポレ東中野等を皮切りに、異例のロングランを記録したのであるが、この事実上の続編が『シン・ちむどんどん』(主に2022年の沖縄県知事選挙が舞台)として2023年8月11日より(那覇)、同8月19日より(ポレポレ東中野等)で公開の段になっている。既に筆者は『シン・ちむどんどん』の試写を観たわけであるが、ネタバレを避けるため多くは語らない。

 両作に共通するのは、候補者における得票の予測とか、それぞれの候補者の背後にいる支持層の票の出力とか、そういうものを分析することにほとんど尺を割いていないことである。ご存じのように2022年の沖縄県知事選挙は、現職の玉城デニー候補が「ゼロ打ち」で圧勝して再選しており、そのような現職圧倒の構図は選挙前からわかっていたからだ。選挙中に無党派層が動き、当初優勢とみられていたトップ候補が追い上げを食らう、又はその逆になる。結局、トップ2候補が最後の最後までデッドヒートを演じる―。確かに選挙をエンタメとしてとらえるときに票数というのは絶対的な尺度なので、そういったものの票読みがある種のエンタメ要素になっていることは否定しないし、筆者も政局分析をするにあたってこのような票数動向についてはワクワク・ドキドキの感が先行することは否定しない。

 しかし票数は単なる数字であって、本当に観ていて面白いのは1票でも多く獲得せんと、時に笑顔の爽やかな中年になり、時には醜男となって絶叫し、そのカメラの中のほんの「ゼロコンマ何秒」にふとみせる絶望、嫉妬、嫌悪、怨嗟という細部の動態こそが極めて浅ましく、これを眺める事こそエンタメの極地であるという事実である。「神は細部に宿る」とはよく言ったもので、どんなに美辞麗句を尽くしても、ひとりの候補者に密着していれば、必ず「ボロ」が出る。矛盾が出る。醜悪ともいうべき候補者の欲望が垣間見える。

 こういった人間の全てを無料で見聞できる(もちろん、取材費等はかかるのだが、選挙演説の見物はタダである)、公職選挙法における選挙というのはやはり最高の祭りでありエンタメである。これを見事に映画化したダースレイダー氏とプチ鹿島氏の両監督の力量は見事というよりほかない。勿論、両作は単に部外者が選挙戦に密着しつつ候補者の醜悪な欲望の片りんを炙り出す、という物見遊山的嗜好で完全に占められているわけではない。両監督がいかに政治的に中立であっても、取材をする観察者には当然「好きな候補」と「嫌いな候補」というのが出てくるのであり、そこには大きくフォーカスしている。

・無料で参加できる「選挙」というお祭り

「どっちもどっち」という昨今はやりの冷笑的な、相対的演出はやや弱いと言えば弱いが、それは欠点ではなくむしろ美点である。有権者が「好き・嫌い」を投票に際しての大きな尺度にするのと同じで、映画監督が厳正中立である必要はない。

 そも祭りに参加するのに「中立」「冷静」も何も無いはずだ。候補者やその背景にある社会問題が炙り出される時、ダースレイダー氏もプチ鹿島氏も、静かに怒っている。そして静かで痛烈な皮肉を用いる。これは「祭り」とは単なる俗っぽい狂騒の要素のみであるということを意味しない、と両監督が明らかに意識している重要なメッセージだ。「祭り」自体が社会性を持ち、政治性を持つ。そんなよく考えなくともわかることが、昨今の「公選法の縛り云々」「公正中立な報道云々」の前で希釈化されつつあるが、選挙とは本来そういうものなのであることに気が付かされる。

「政治エンタメ映画」は、我が国の中でようやくここ数年で登場しつつあるように思える。個別の選挙にまつわるドキュメントはかつても存在したが、それはメルクマール的選挙と従前から認識されているものに焦点をあてたものであって、ある種の記録映画として分類されるものと言えなくもなかった。『劇場版 センキョナンデス』と『シン・ちむどんどん』は政治的記録映画ではない。

 すでに述べたように、これらの作品の中で展開される多くの選挙の勝敗・結果は、選挙前の予想とほぼ変わらなかったからである。政治に、選挙に、東奔西走する人間の時に醜悪な妙味を切り取ること。それ自体が笑いに値する。観察者(監督)は観客と一緒にその「祭事」に参加し、同じように爆笑する。こういった種類の作品は、これまでの日本映画史の中であるようで実はなかったのかもしれない。「政治エンタメ映画」の確立に向けてその前衛を走る、ダースレイダー氏とプチ鹿島氏の両監督の挑戦から目が離せない。(了)

参考

『劇場版 センキョナンデス』公式サイト

『シン・ちむどんどん』公式サイト

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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