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忘れられた戦場・レイテ/フィリピンの戦いから75年

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
フィリピン国立美術館所蔵(日米両軍の攻撃で燃え上がるマニラ市、油彩)筆者撮影
廃墟と化したマニラ市と避難する住民。手前は陵虐された婦女か。フィリピン国立美術館所蔵、油彩。筆者撮影
廃墟と化したマニラ市と避難する住民。手前は陵虐された婦女か。フィリピン国立美術館所蔵、油彩。筆者撮影

1】忘れられた戦場

 太平洋戦争の激戦地で真っ先に思い出されるのは、ガダルカナル(ガ島)、硫黄島、そして沖縄。ガダルカナルの日本兵死者約2万、硫黄島同2万、沖縄約8~10万。しかし、中国戦線を除き、あの戦争で最も日本兵の戦死者が多かったのはフィリピン戦線であることは実はあまり知られていない。大本営は「比島決戦」と称し、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を「大東亜戦争の天王山」(小磯国昭首相談)と位置づけ、都合75万人もの大兵力を送ったが、そのうち実に50万人もの兵士が戦死した。

 75年前の今日。1944年10月20日。日本軍の真珠湾奇襲とほぼ同時に始まった南方資源地帯の占領、所謂「南方作戦」で重要な占領目標とされたフィリピンは、マニラ湾上に浮かぶコレヒドール要塞、バターン半島南部の頑強な抵抗があったものの、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を掌握する。マッカーサー元帥は夜陰に乗じてオーストラリアに逃亡。そこにて記者団に語ったのがかの有名な「アイシャルリターン(私は必ず帰る)」である。この言葉通り、米軍が約20万の兵力を以てフィリピン奪還に動いた第一歩が、1944年10月20日だ。

 ここから終戦までの約10か月、フィリピンでは海で日本海軍始めての神風特別攻撃隊が出撃。陸では敗残兵がジャングルや山岳奥地に立てこもり、戦後も投降勧告を黙殺し続ける兵士も多数いたほどである。

 ガ島、硫黄島、沖縄、そしてインパール。悲惨な戦場はその地名が代名詞となっているが、フィリピンだけはブラインドスポットとして日本人の心から忘れられようとしている。それはフィリピン戦線が同国の広大な島嶼に幅広く及び、なおかつ戦後、日比関係が紆余曲折を経ながらも友好善隣の関係として発展してきたことが、逆に負の歴史を日本側に自覚させづらい、という側面を生んだからだ。

 マッカーサーのレイテ島上陸75年目を契機に、レイテ/フィリピンの戦いを振り返りたい。

2】日本よりも豊かだったフィリピン

 フィリピンは米西戦争(1898年)の結果、アメリカがスペインから「賠償」の名目で買い上げると、約400年続いたスペインの植民地時代が終わり宗主国がアメリカに交代した。アメリカは当初こそ厳格な統治を敷いたが、やがてそれはフィリピン人を「アメリカの小さな茶色い兄弟」と呼ばわせしめるほど発展した文明人へと引き上げていく。

 アメリカはフィリピンを極東進出の足掛かりとして要塞化(コレヒドール要塞、クラークフィールド飛行場等)する一方、フィリピンのインフラ整備に莫大な予算措置を講じた。電話網、鉄道網、水道・灌漑施設の設置はもとより、教会、学校、映画館、病院等の整備を施し、基本的人権や民主主義の概念を与えた。

 1930年代のマニラは「東洋の真珠」と言われるほどの美観を保ち、一人当たり所得は日本よりも高かったため、この時期マニラに出稼ぎに来る日本人労働者が多数いた。またマニラとは正反対に位置する南部ミンダナオ島のダバオ市には沖縄出身の日本人出稼ぎ工が中心となり大規模な日系人街が作られ、その人口は最盛期で2~3万。「第二の満州」と呼ばれ、アメリカから「領土的野心があるのではないか」と警戒の目で見られることさえあった。

 アメリカはフィリピンに独立を与えるつもりでいた。1935年、約10年後(1946年)の独立を目途にフィリピンコモンウェルス(フィリピン独立準備政府)が発足。初代首班にマニュエル・ケソンが就いた。何もしなければ、フィリピンは1946年にアメリカから独立するはずであった。しかし1941年12月8日、日本の真珠湾奇襲により勃発した太平洋戦争が、フィリピンの運命を変えた。

 東南アジアの資源地帯を迅速に掌握し、対米持久戦の基礎とする所謂「南方作戦」の経過の中で、どうしても制圧しなければならないのがフィリピンであった。結果、冒頭のごとくフィリピン全土は1942年4月までに日本軍の手に落ちる。フィリピンの地獄はここから開始された。

3】失敗した日本軍の軍政

日本兵に暴行される在比米系の家族。フィリピン国立美術館所蔵、油彩。筆者撮影
日本兵に暴行される在比米系の家族。フィリピン国立美術館所蔵、油彩。筆者撮影

 よく、太平洋戦争はアジア解放の側面があった、と言う保守系論客が居る。確かに、「南方作戦」が大本営の予想以上に成功をおさめ、結果、英領ビルマやマレー、蘭印で日本軍は「イギリス、オランダからの解放軍」と見做され、一時的に歓迎されたことは歴史の事実である。しかしフィリピンだけは様相が違った。フィリピンにおける日本の軍政は初手から破綻していた。

 まず、物資の現地調達が基本の日本軍が軍票(軍が発行権を握る通貨)を乱発し、アメリカの庇護のもと複雑高度に発達していたフィリピンの金融経済をインフレによって破壊した事。第二に、フィリピンがスペイン時代から厳格なカトリック教国であったため、「八紘一宇」の概念の押しつけに精神的反発が大きかったこと。そして「アジア解放のための聖戦」を美名にフィリピンを占領したはいいが、前掲した通り、そもそもフィリピンは1946年に独立が約束されていたこと。なにより、フィリピンを占領した日本軍が、「前任者」のアメリカ軍より圧倒的に貧乏で粗暴であった事等々である。

 これにより、フィリピン占領初期から各地で抗日ゲリラが頻発し、やがて一大勢力になった。マッカーサーはオーストラリア方面に撤退して連合軍の反転攻勢の機会をうかがったが、その大きな情報はフィリピンにいる抗日ゲリラからの無線通信や、潜水艦を通じて豪州―フィリピンを結ぶ極秘ルートによってもたらされていた。アメリカ側は抗日ゲリラに武器・弾薬を送り、ゲリラはアメリカに日本軍の情報を送った。彼らは「マッカーサーの目と耳」と呼ばれた。マッカーサーはオーストラリアに居ながらにして、フィリピンにおける日本軍の一挙手一投足を知りえていたのである。

 こうした中、1944年10月20日、マリアナ沖海戦の圧倒的勝利とサイパン島占領(1944年6月)の余勢を買ってレイテ島に米軍20万が上陸するわけだが、米軍が上陸地点としてレイテ島を選んだのは、抗日ゲリラからの情報が大きな要因であった。前述の通り日本軍の動向は抗日ゲリラを通じて米軍に筒抜けであり、レイテ島は日本軍の最も防備が手薄い地帯であると判断したからであった。

 米軍上陸当所、フィリピン全土で日本軍がまともに行動できたのはマニラと、点と点を結ぶ都市だけで、他はすべて抗日ゲリラの影響下にあり、日本軍は米軍上陸前からその戦いの帰趨が決していたと言える。太平洋戦争を通じて、日本軍の占領地域でこれだけ抗日ゲリラが盛んだった国はフィリピンを置いて他にない。

4】日本軍、比島決戦に敗れる

マニラ市の旧市街(イントラムロス地区)には、マニラ市街戦で廃墟となった建物がそのまま保存・展示されている。砲弾の跡が生々しい。筆者撮影
マニラ市の旧市街(イントラムロス地区)には、マニラ市街戦で廃墟となった建物がそのまま保存・展示されている。砲弾の跡が生々しい。筆者撮影

 当初、フィリピン防衛の為に組織された第14方面軍は、ルソン島での一大決戦に備えて防衛準備をしていた。が、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると知ると防御方針を転換し、戦力の逐次抽出を行って圧倒的火力の米軍にことごとく敗れ去った。困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執し、これが原因で多くのマニラ市民が日米両軍の戦闘の巻き添えになった。マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を数えるとされる。フィリピン全土では一体いくらの罪なきフィリピン人が犠牲になったのか。その全容は現在でも明らかになっていない。

 一方海では、米軍レイテ島上陸に際して連合艦隊が乾坤一擲の大攻勢に打って出たが、あっけなく敗れ去った。これにより日本海軍の組織的な制海行動は終了し、フィリピン戦での日本海軍の敗北が、「統率の外道」=神風特別攻撃隊(特攻隊)を創り出した。

 マニラ失陥後、指揮系統を失った日本軍は、或る者は山岳地帯に逃げ、或る者は島嶼部のジャングル地帯に立てこもった。戦争終結後、29年の後、初めて投降に応じた小野田寛郎少尉(ルパング島、1974年帰国)もその一人であった。こうしてあまりにも多大な犠牲を出したフィリピンの戦いは終わったのである。

5】最悪だったフィリピンの対日感情。そして和解、友好へ

バターン死の行進のレリーフ。フィリピン国立美術館所蔵、筆者撮影。
バターン死の行進のレリーフ。フィリピン国立美術館所蔵、筆者撮影。

 このような事情から、戦後長らく、フィリピンにおける対日感情はアジア最悪の部類であった。マニラ市では「日本人は日中街を歩けない」とさえ言われるありさまだった。事実、所謂「東京裁判」におけるフィリピン代表判事のデルフィン・ハラニーリャ氏は、バターン半島における攻防戦で日本軍に捕虜になった経験(バターン死の行進)から、日本に対して連合国判事の中で最も苛烈ともいえる敵愾心を燃やしていたことは有名である。

 しかしこうしたフィリピンの最悪の対日感情も、時がたつにつれて融和の道をたどった。ひとつはフィリピンが戦後、マルコスによる親米独裁政権により、日本との関係で反日感情よりも経済協力を優先させたこと(しかしそれでも、日比の賠償交渉は相当難航したことを記す)。また最大の理由は、50万人ともされる日本人戦没者の遺族が、戦後、遺骨収集や戦没者慰霊の為にフィリピンに渡航し、現地住民との草の根の交流を広げたところが大きかった。

 或る遺族団は、フィリピンに着くなり現地住民から「日本軍が奪って行った俺のトラックを返せ!」と鬼の形相で怒鳴られたという。しかし、このような両国民の戦争による傷も、日本人戦死者50万人の背後にいる、数百万の遺族らの渡比行為と草の根の交流事業により「日本人は決して鬼ではない」という融和の心をフィリピン人に惹起せしめ、そしてカトリック教国特有の「赦しの心」により、日本軍の加害の罪を赦す、という意識が芽生え、広がっていったのである。

 現在、フィリピンの対日感情はかつてないほど好転している。かつて「アジアの病人」と呼ばれた経済も順調であり、総人口も1億人を突破したこと等から、日比間の経済交流・人的交流、および防衛協力等も益々重要度を増していると言える。しかしその背景には、50万人の日本人戦没者の存在と、それを数倍上回る罪なきフィリピン人の被害者が居ることを、現代日本人は決して忘れてはならない。

 戦争責任、加害の歴史と言うとすぐに韓国と中国が俎上に載せられる。もちろんそれはそれとして、しっかりと記憶に刻まれる必要があるが、一方でフィリピンも、日本人が決して忘れてはならない戦場であることを、私たちは1944年10月20日から75年たった今、再度心に刻む必要があるのではないか。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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