近代国家としての形が整ったときに襲った大地震

 濃尾地震は、1891年(明治24年)10月28日午前6時38分50秒に発生したマグニチュード8.0の巨大地震です。内陸直下で起きた地震としては、観測史上最大の地震です。1995年阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震はM7.3ですから、放出エネルギーは10倍以上、今月7日に発生した千葉県北西部の地震はM5.9ですから、放出エネルギーは千倍以上です。温見断層、根尾谷断層、梅原断層などが連動して活動し、根尾谷の水鳥では上下に6mの段差が、田んぼのあぜ道には約8mの水平ずれが生じました。揺れは東北地方や九州でも感じたようです。美濃と尾張を襲った地震なので「身の終わり」地震とも呼ばれています。

 地震が起きたのは、明治維新から四半世紀が経ったときです。1889年に大日本帝国憲法が公布され、東海道線が全通し、1890年に第一回帝国議会が開会され、立憲国家の形を整えた直後の地震です。まさに、近代国家・日本が初めて経験する大災害でした。1900年に発表された「汽笛一声新橋を」で有名な鉄道唱歌の第一集・東海道編34番にも、「名たかき金の鯱は名古屋の城の光なり地震のはなしまだ消えぬ岐阜の鵜飼も見てゆかん」とあり、濃尾地震のことが記されています。東日本大震災から10年が経た今、震災後10年経ってもそのことを忘れずに鉄道唱歌が歌われていることに、感慨を覚えます。

甚大な被害

 地震による被害は、死者7,273人、全壊家屋142,177戸に上ります。阪神・淡路大震災の死者・行方不明者6,437人、全壊家屋104,906棟を上回る被害です。当時の日本の人口は4千万人程度ですから、人口比を考慮すると阪神・淡路大震災よりも遥かに大きな被害で、関連死・行方不明者を含め2万人強の犠牲者を出した2011年東日本大震災に匹敵します。被害は岐阜県と愛知県が顕著で、岐阜では焼失家屋が多数発生しました。

 内閣府の報告書によると、道路破裂20,067か所、橋梁損落10,392か所、堤防壊裂7,177か所、山崩れ10,224か所もの被害が発生しました。とくに、断層に沿った美濃で大きな被害になりました。岐阜県や福井県では、山々が崩れて多くの河川を堰き止め、天然ダムもできました。また、多くの堤防が損壊し、土砂流出も多かったことから、その後、木曽三川周辺は、水害や土砂災害に悩まされることになりました。

 地盤が軟弱な濃尾平野西部でも大きな被害が出ました。液状化は、濃尾平野に加え、静岡や、福井、大阪などでも、広範囲に発生しました。東日本大震災のときに震源から離れた東京湾岸で液状化被害が大きかったことを彷彿とさせます。

 この地震では、名古屋郵便電信局や尾張紡績工場などのレンガ造の建築物が倒壊しました。レンガ造建物の被害は木造家屋に比べ微少でしたが、近代化の象徴だったレンガ造建築の被害は、当時の人々にとっては衝撃的だったようです。このため、多くの建築研究者が被害原因を分析し、「建築雑誌」の誌上で近代建築の耐震化の在り方を議論しました。また、被災地でのレンガ造建築の被害のショックは大きかったようで、震災後に作られた愛知県庁本庁舎は、当時には珍しく木造で建設されました。

地震の特異日「10月28日」

 実は、濃尾地震が起きた10月28日は大地震の特異日です。ユリウス暦で言うと、878年10月28日に相模トラフ地震が疑われる相模・武蔵の地震が発生しました。前後には、864年富士山の貞観噴火、東北の超巨大地震・869年貞観地震、南海トラフ地震の887年仁和地震なども起きました。旧暦ですが1611年には慶長三陸地震が発生しています。この地震は、千島海溝・日本海溝沿いのM9クラスの超巨大地震の可能性が指摘されています。直前には南海トラフ地震が疑われる1605年慶長地震も起きています。新暦の1707年には南海トラフ地震・宝永地震が起きています。宝永地震は、有史以来最大の南海トラフ地震とも言われており、4年前には1703年元禄関東地震が、49日後には富士山の宝永噴火も起きました。

 このように、内陸直下、南海トラフ、駿河トラフ、日本海溝沿いの地震の全てが10月28日に発生し、歴史の転換期にもなっています。偶然だとは言え、毎年10月28日は身が引き締まります。

科学的に調べられた初めての大地震

 1880年2月22日に横浜で小規模な地震が起き、煉瓦造の建物や煙突が被害を受けました。地震のない国から来たお雇い外国人教師ジョン・ミルンはこの地震に驚き、翌月3月に日本地震学会を世界で初めて設立しました。その後、ミルンは、地震計の開発や地震観測を行いました。また、ミルンの提言によって、東京気象台が1884年に「地震報告心得」を制定し、地震動の時刻や震度等の報告を全国から集約するようになり、1885年から地震報告としてまとめられるようになりました。1889年7月28日に発生した明治熊本地震では、初めて科学的な地震被害調査が行われました。

 そんな中、濃尾地震が発生しました。ミルンは、ウィリアム・K・バートンと共に被災地に赴いて地震調査を行ない、「The Great Earthquake of Japan, 1891」という報告書を残しています。また、ミルンに師事した大森房吉も濃尾地震の調査に赴きました。大森は、明治元年生まれで、濃尾地震の前年に帝大を卒業したところでした。地震後の余震の発生頻度を調べ、時間と共に余震が減少する大森公式を提案しました。大森はその後、世界の地震学をリードする多くの業績を残しました。

 濃尾地震後には、全国の6割以上の測候所にユーイング・グレイ・ミルン式地震計が配備され、全国的な地震観測が行われるようになりました。

濃尾地震で始まった地震学、耐震工学の研究

 地震後、帝大教授で貴族院議員だった菊池大麓らが中心になって、地震被害を抑止するための研究機関の設置を帝国議会に建議しました。そして、1892年に「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議する」ための震災予防調査会が文部省に設置されました。

 調査会の委員には、地震、物理、地質、建築、土木などの専門家として、菊池大麓、古市公威、小藤文次郎、辰野金吾、関谷清景、巨智部忠承、田中舘愛橘、中村精男、長岡半太郎、田辺朔郎、大森房吉の11人が就任しました。地震予知と地震予防の方法を攻究するため、理学的研究と工学的研究の連携の大切さが説かれています。

 内閣府の報告書によると、重要な案件として、「地震、海嘯、噴火、破裂についての事実の収集」「地震史の編纂」「地質学的調査」「地震動の性質に関する研究」「地震動伝播速度の研究」「地盤の傾斜、パルセーションの測定」「地上、地中の震動調査」「磁力実測、等磁線作成、地磁気観測所の設置」「地下温度測定」「重力分布、測定、地殻抑圧の変化の研究」「緯度の変位の観測、水準の変遷調査、地歪の前進視察」「構造材料の強弱試験」「耐震家屋の地震多発地帯への普及」「構造物雛形による人為震動の試験」「構造物のうち、震災関係の調査」「地盤ごとの地震動比較測定」「地震動の遮断の試験」「調査報告書の出版」が記されています。地殻変動、地震動、地盤震動、地震予知、地震史、構造材料、耐震建築、免震など、現代でも色褪せない重要な研究課題が網羅されています。

 濃尾地震から130年が経ちますが、この間、地震災害をどれだけ軽減できるようになったのか、再点検が必要だと思います。