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【過去の教訓を未来につなぐ】土砂災害や水害危険度が増す梅雨時の地震 6月に起きた地震を振り返る

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
風俗画報に記された明治三陸地震津波の様子

 過去、梅雨時の6月には多数の地震が発生してきました。水を多く含んだ地盤は通常に比べ、崩れやすくなります。地震で堤防などが損壊している中、豪雨が襲うと水害の危険も増します。地震後の雨中での対応や生活も大変です。暑く湿度の高い季節は、様々なものが腐乱しやすく衛生問題も発生し、災害後の生活は困難を極めることが予想されます。過去の6月の地震を10個取り上げてみます。

745年6月1日(ユリウス暦)6月5日(グレゴリオ暦)(天平17年4月27日) 天平地震

 聖武天皇の時代の745年に岐阜県美濃地方で発生したと考えられる地震で、1891年濃尾地震に匹敵する巨大地震だったようです。地震規模は、M 7.9と推定されており、地震を起こしたのは、濃尾平野の西に位置する養老断層だと考えられています。天平の時代は、奈良時代の最盛期で、東大寺、唐招提寺などの仏教文化が育まれ、天平文化と呼ばれています。養老-桑名-四日市断層帯では千年程度の間隔で大地震を発生させ、その活動によって西側が隆起して養老山地が、東側が沈降して濃尾平野が形成されました。この断層帯では、1586年に天正地震が発生したと考えられており、現在は地震後400年程度しか経過していないため、今後30年間の地震発生確率は、M8程度の地震がほぼ0%~0.7%の確率で発生すると評価されています。

762年6月5日(ユリウス暦)6月9日(グレゴリオ暦)(天平宝字6年5月9日)

 続日本紀に記述された地震で、美濃・飛騨・信濃で揺れがあったとされており、地震調査研究推進本部は、糸魚川−静岡構造線断層帯で発生したM8クラスの地震の可能性を指摘しています。この地震以降、この断層帯では大地震が発生した記録が見つかっていないことから、近い将来の地震発生が危惧されています。そもそも、糸魚川−静岡構造線は、本州の中央部をほぼ南北に横切る大断層で、東北日本と西南日本の境目に当たり、大地溝帯であるフォッサマグナの西縁に位置します。今後の30年間の地震発生確率は、牛伏寺断層を含む中北部の区間では、M7.6程度の地震が13%~30%で発生すると評価されています。

1662年6月16日(寛文2年5月1日) 寛文近江・若狭地震

 二つの地震が連続して発生したようで、午前中に三方断層帯の日向断層で発生し、その後、お昼頃に花折断層の北部で連続して地震が発生したようです。震源近くの近江や若狭に加え、山城や摂津などでも被害が生じ、家屋の倒壊に加え、地震に伴う火災、大規模な土砂崩れ、地盤の隆起、土地の液状化などが生じました。

 震源近くでは、日向断層周辺で河道閉塞が起き、花折断層に沿った葛川谷では大規模な土砂崩れが起きるなど甚大な被害を受けました。また、琵琶湖沿岸のまちは湖岸を埋め立てた軟弱地盤だったため、大きな被害となりました。さらに、震源から離れてはいますが、多くの家屋があった京都でも、地盤が軟弱な盆地の南部で被害が大きくなりました。

1894年(明治27年)6月20日 明治東京地震

 東京湾北部を震源にしたM7.0の地震で、沈み込むフィリピンプレート内の地震が疑われているようです。この地震では、東京の下町や横浜市、川崎市などを中心に被害が発生し、31名が犠牲になりました。1891年濃尾地震の後に設置された震災予防調査会によって本格的な調査が行われました。この年には、3月22日にM8クラスの根室半島沖地震、10月22日にM7.0の庄内地震も発生しています。

 西洋から導入されたレンガ造の被害や煙突の被害が多かったようで、震災予防調査会報告第5号別冊では詳細な煙突の調査報告がされています。

1896年(明治29年)6月15日 明治三陸地震

 明治時代に最大の犠牲者を出した地震で、三陸沖の太平洋プレートと北アメリカプレートの境界で発生したM8を超える巨大地震です。海溝近くの浅部がゆっくりと滑ったようで、揺れは小さかったものの、高い津波が広域に襲い、大船渡市三陸町綾里地区では38.2mを記録する津波が発生しました。津波は、ハワイや米国カリフォルニアにも到達しました。揺れが少なく津波が顕著な地震のため、「ゆっくり地震」とか「津波地震」と呼ばれています。

 当日は旧暦の端午の節句の日で、前年の日清戦争の勝利を祝って凱旋兵が宴会を楽しんでいました。19時32分に起きた地震によって不意打ちのように津波が襲ったことで、多くの犠牲者を出すことになりました。この様子は、吉村昭が著した「三陸海岸大津波」にも記されています。犠牲者は、2万2千人にも及び、その8割以上が岩手県で発生しました。中でも田老地区と乙部地区では、14.6mの津波が襲い、ほとんどの家屋が流失して、2000人ほどの住民のうち生存者は僅か36人だったとのことです。

 この地震の2か月半後の8月31日にはM7.2の陸羽地震が発生し、その後も宮城県沖や三陸沖でM7クラスの地震が続発しました。

1905年(明治38年)6月2日 芸予地震

 日露戦争の最中に起きたM7.2の地震で、11人の死者が出ました。瀬戸内海の地下を震源とし、愛媛県の伊予と広島県の安芸での被害が生じることから芸予地震と言われています。最近では2001年にも発生しています。

 地震が起きたのは日露戦争中(1904年2月8日~1905年9月5日)で、日本海海戦(1905年5月27日~28日)での勝利の直後だったため、被災地に呉鎮守府があったこともあり、被害報道はあまりされなかったようです。呉鎮守府は、横須賀、佐世保、舞鶴の各鎮守と共に海軍の最重要拠点で、1889年に開庁し、1903年に呉海軍工廠も設置されました。被害は地盤が軟弱な広島市や呉市に集中しました。呉鎮守府の被害の様子がロシアに筒抜けになっていたら日露戦争の行方はどうなっていたでしょう?

1948年(昭和23年)6月28日 福井地震

 M7.1の直下地震で、福井平野東縁断層帯西部が活動したと考えられています。最大震度は6でしたが軟弱な地盤の福井平野を中心に強い揺れに見舞われ、平野内の殆どの建物が壊れました。全壊家屋は約3万6千、焼失家屋は約4千と、甚大な家屋被害となり、死者は3,769名に上りました。福井平野内の全壊率は9割に及び、1995年兵庫県南部地震に比較して遥かに高い全壊率、死亡率でした。気象庁は、この地震の後に震度 7を新設しました。

 この地震では、鉄筋コンクリート(RC)造の大和デパートが全壊したことが話題になりました。当時、福井市内には47のRC造建物があったようですが、大和デパートの隣には3階建てのRC造の酒伊ビルがあり、こちらは無被害で、今も銀行に利用されています。この地震の被害も踏まえ、耐震規定を含む建築基準法が2年後の1950年に作られました。

 強い揺れで九頭竜川の堤防が沈下し、1か月後の7月23日から25日にかけての豪雨で九頭竜川が決壊しました。

1964年(昭和39年)6月16日 新潟地震

 新潟県の日本海側の日本海東縁変動帯で発生したM7.5の地震で、最大震度は5、死者26名の全壊家屋約2,000棟の被害が出ました。海で起きた地震のため津波も発生しました。この地震では、大規模な液状化が発生し、信濃川の河畔にあった県営川岸町アパートが大きく傾きました。また、完成したての昭和大橋が、橋脚が傾いて落橋したり、信濃川周辺で液状化によって地盤が水平に移動する側方流動が発生したりしました。さらに、長周期地震動によって昭和石油新潟製油所が爆発炎上し、石油タンクの延焼火災を招きました。

 この地震の後、液状化研究が本格化し、石油コンビナートの防災対策も大きく進展しました。液状化、空港の浸水、タンク火災など、2011年東日本大震災と共通する点が多くあります。地震後、当時大蔵大臣だった田中角栄氏を中心に地震保険制度の整備が行われました。ちなみに、1964年は東京五輪が行われた年だったため、国体が春季に繰り上げて行われ、地震の4日前まで開催されていました。地震の被害が大きかったため、地震後に予定されていた夏季大会は中止されました。

1978年(昭和53年)6月12日 宮城県沖地震

 太平洋プレートと北アメリカプレートの境界で発生したM7.4、最大震度5の地震で、ブロック塀などの下敷きによる18名を含め28名が犠牲になり、住家の全壊は1,183棟に及びました。丘陵地の宅地造成地の地盤崩壊や沖積低地の液状化などの地盤災害も多く発生しました。交通機関の停止によって帰宅困難者が発生し、停電や断水、ガスの供給停止など、ライフラインの途絶によって生活支障も生じるなど、大都市特有の課題が浮き彫りになった地震です。この地震ではRC造建物の被害が沖積低地の建物を中心に目立ち、1968年十勝沖地震と同様、RC造建物の設計の在り方が問われました。そこで、3年後の1981年に建築基準法施行令が改正され、十勝沖地震以降に開発されていた新耐震設計法が導入されました。

2008年(平成20年)6月14日 岩手・宮城内陸地震

 岩手県内陸南部で発生した、M7.2 の地震で、北上低地西縁断層帯との関係が指摘されています。この地震では、死者17名、行方不明6名の犠牲者が出ました。岩手県奥州市と宮城県栗原市で最大震度6強が観測され、防災科学技術研究所の一関西観測点では4022galという世界最大の加速度が記録されました。しかし、短周期の揺れが多かったため、建物被害は全壊30棟と震度の割に多くはありませんでした。一方で、大規模な土砂災害が目立ちました。中でも荒砥沢ダムでは崩落土砂によって津波も発生しました。この地震の前年には2007年能登半島地震、新潟県中越沖地震が、また、翌月には岩手県沿岸北部の地震などが起き、死者も出ています。

 このように、過去、6月には多数の地震が発生してきました。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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