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過去を学び将来に備える:戦中戦後の激動期、5つもの震災に見舞われた日本

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
三河地震で崩れた幸田町本光寺の土塀

戦況が悪化する中で起きた鳥取地震

日米交渉が決裂し、1941年12月8日、真珠湾攻撃、マレー半島上陸と共に、米英両国に宣戦布告し、太平洋戦争が始まりました。政府は、1937年に開戦した日中戦争も含めて大東亜戦争と命名しました。ちなみに、日中戦争のため、1940年に予定されていた東京オリンピックは辞退することになりました。

当初、進撃を続けていた日本軍でしたが、42年6月5日からのミッドウェイ海戦に敗れ、戦争の主導権を失うことになりました。その後、8月7日ガナルカナル島への米軍上陸、翌43年2月ガナルカナル島撤退、4月18日山本五十六戦死、9月8日イタリア全面降伏の中、9月10日夕刻に鳥取地震が発生しました。

鳥取地震は、鹿野断層と吉岡断層を震源とするM7.2の地震で、1083人の死者を出しました。鳥取市の中心部は、全壊率80%と、ほぼ壊滅してしまいました。鉄道の被害や農産物の被害なども報告されています。なお、この地震のときの鳥取市長は、関東大震災の後、内務省で復興に携わった吉村哲三氏でした。

敗戦の色濃くしたときに東海地方を襲った東南海地震

鳥取地震の後、戦況はさらに悪化し、学徒出陣や学童疎開などが始まりました。年が明け44年1月には、南方の島々が陥落しはじめ、6月以降、サイパンの戦い、マリアナ沖海戦、グアムの戦いと続き、10月にレイテ島の戦いがあり、11月24日にはB29による東京空襲が始まりました。そして、名古屋空襲を予定していたとき、東南海地震が発生しました。

太平洋戦争開戦記念日の前日12月7日の午後1時半ごろ、東南海地震が発生しました。1707年宝永地震、1854年安政地震に続く南海トラフの地震ですが、過去の南海トラフ地震と比べ小粒の地震で、M7.9でした。安政地震の震源域のうち、駿河トラフには震源が及ばなかったため、その後の東海地震説につながりました。

敗戦の色を濃くし始めた時の地震で、軍需工場が集中した名古屋で大きな被害を出したこともあり、軍部は徹底的な情報統制をしました。このため、「隠された地震」とも言われます。翌日12月8日の朝刊は、軍服姿の昭和天皇が一面トップで、片隅に「天災に怯まず復旧 震源地点は遠州灘」との見出しで小さな記事が報じられているだけでした。

一方で、ニューヨーク・タイムズなどの欧米紙では、日本のこの地震を大きく取り上げました。1面に「中部日本で地震被害」の見出しを掲げ、「1923年の大地震よりも大きい」とか「日本列島では激しい揺れと津波が起きたはず」などと報じました。

軍需産業が大きな被害を受けた

この地震では、愛知県と三重県を中心に、死者・行方不明者1,183人の被害を出しました。尾鷲など三重県沿岸を津波が襲いました。また、静岡県の袋井では、太田川下流の軟弱地盤で強い揺れとなり、多くの家屋が倒壊しました。諏訪湖周辺の軟弱地盤も強い揺れに襲われましたが、情報統制のため単独の「諏訪地震」とされました。愛知県も濃尾平野、岡崎平野、豊橋平野などを中心に大きな被害となりました。

中でも、名古屋市の沖積低地に集中立地していた軍需工場の被害は、著しいものでした。とくに、飛行機生産のほとんどを担っていた三菱重工名古屋航空機製作所道徳工場や半田市の中島飛行機山方工場の甚大な被害は、戦争継続能力を削ぐことになりました。これらの工場は、軟弱地盤に立地した上に、紡績工場を飛行機工場に転用するときに、柱などを抜いたため耐震的にも問題があるものでした。全国から学徒動員された多くの若者たちが犠牲になったことは残念でなりません。

なお、地震の翌週12月13日には、飛行機エンジンの4割以上を生産していた三菱重工名古屋発動機製作所大幸工場が空襲を受けました。この場所は、現在はナゴヤドームや名古屋大学大幸キャンパスとして使われています。この空襲当日には、東山動物園の猛獣たちも殺処分されました。まさに、名古屋は震災と戦災を同時に受けることになりました。

1か月後、復旧前の被災地を誘発地震が襲った

1945年1月13日未明に 三河地震が発生しました。深溝断層がずれ動いたM6.8の地震で、東南海地震の誘発地震とも言えます。断層に近い蒲郡、幸田、西尾、安城、碧南の被害が甚大でした。金物供出などによる物資不足や出征による大工不足などもあり、東南海地震で被害を受けた建物を補修する前に強震が襲ったため、東南海地震の倍の1961名の犠牲者を出しました。また、疎開先の寺院が倒壊して、多くの児童が亡くなるなど、戦時下ならではの被害となりました。

敗戦から日本国憲法公布へ

戦況の方は、2月4日にヤルタ会談、2月18日硫黄島上陸、3月10日東京大空襲、4月1日沖縄本島上陸、4月7日戦艦大和撃沈、4月30日ヒトラー自殺、5月7日ドイツ降伏、6月21日米軍沖縄占拠、7月26日ポツダム宣言、8月6日広島原爆、8月7日豊川海軍工廠爆撃、8月9日長崎原爆を経て、8月15日に玉音放送により敗戦を迎えました。その後、8月30日にマッカーサーが来日し、9月6日に東京に進駐しました。

この直後、9月17日に、室戸台風、伊勢湾台風と並んで昭和の3大台風の一つの枕崎台風が来襲しました。敗戦直後の混乱の中、死者2,473人、行方不明者1,283人の甚大な被害を出しましたが、特に原爆の被災地・広島では、土砂災害などにより死者・行方不明者が2000千人を超える被害となりました。

さらに9月27日昭和天皇のマッカーサー訪問、10月2日GHQ設置、10月24日国際連合発足、11月6日GHQ財閥解体命令、12月9日GHQ農地改革指令、翌46年1月19日極東国際軍事裁判所設置などを経て、11月3日に日本国憲法が公布されました。そして、12月21日、南海地震が発生します。

戦災に震災が追い打ちをかけた

戦後の混乱が続く中、1946年12月21日未明、 南海地震が発生しました。地震規模はM 8.0、死者・行方不明者1,443人でした。四国~和歌山を津波が襲い、高知市は地殻変動による沈下で浸水しました。過去の南海地震と比べ、規模が小さかったことから、大阪は津波被害を免れ、また、安政地震で大きな被害を受けた和歌山・広村は、濱口梧陵の作った広村堤防のおかげで津波被害を受けることはありませんでした。

関東に大水害をもたらしたカスリーン台風

1947年5月3日に日本国憲法が施行されました。8月14日には浅間山が爆発し11名が犠牲になり、らに、9月15日にカスリーン台風が来襲しました。この台風は、上陸はしなかったものの、大雨をもたらし、利根川や荒川などが決壊し、東京下町にも被害が出ました。その結果、死者 1,100名の大きな被害となりました。この台風をきっかけに、大都市水害を防ぐための治水事業が促進されるようになりました。

福井を襲った直下地震

1948年6月28日夕刻、福井市を強い揺れが襲い、死者・行方不明者3,769人の大災害となりました。福井市内のほとんどの建物が倒壊し、震度階級7が新設されました。1891年濃尾地震、1945年三河地震の延長線上にある断層帯で起きた地震です。極めて高い死亡率で、九頭竜川が堆積させた軟弱地盤が被害を拡大したと思われます。また、鉄筋コンクリート造の大和百貨店福井店が全壊したことが話題になりました。

この地震で、九頭竜川の堤防が沈下し、1か月後の集中豪雨で決壊しました。福井市は、福井大空襲、福井地震、九頭竜川堤防決壊という3度の壊滅的被害から見事に復興したことから、不死鳥(フェニックス)の町と呼ばれています。

このように戦時中から戦後にかけて、数多くの自然災害が我が国を襲い、戦災と自然災害で混乱を極める中、少しずつ復興を遂げていきました。そんな中、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争は、我が国に特需をもたらし、戦後復興を加速させました。その後、我が国の大都市は、1995年阪神淡路大震災まで、大きな震災に襲われることがなく、高度成長を遂げることができました。

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名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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