虚実を混ぜる危険性、人々を魅了した「ひろしまタイムライン」はなぜ批判されたのか

ひろしまタイムラインのサイト。ツイートは創作と書かれている=筆者がキャプチャ

NHK広島放送局の企画「ひろしまタイムライン」のツイートに批判が起きています。ツイッターを使い、広島に原子爆弾が投下された75年前と現代を結びつける新たな手法は、原爆や戦争を身近に感じさせることに成功しています。ここでは、批判の背景にある企画の危うさを考えます。

ツイートへの批判はどのようなものなのか

批判されているのは、シュン(@nhk_1945shun)のツイートです。

シュンの投稿の一部=筆者がキャプチャ
シュンの投稿の一部=筆者がキャプチャ

「朝鮮人だ!!

大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」

という投稿に、ヘイトスピーチが溢れる中で配慮が足りない、差別を扇動しているのではないかという批判や「注釈をつけるべきだ」という指摘があります。

虚構(フィクション)はどこまで説明すべきか

「ひろしまタイムライン」のツイートは、虚構(フィクション)であり、シュンのツイートもプロフィールに「75年前の中学1年生・新井俊一郎さんの日記をもとに、今の広島の10代が想像をふくらませ、「シュン」として伝えます。」と説明されています。

原爆や戦争を伝えようとするために、小説や映画、テレビやラジオの再現ドラマといった虚構という手法を使うことは良くあります。それらのひとつの場面、セリフに、いちいち注釈をつけていては、このような手法が成立しなくなってしまいます。

当然ですが虚構であれ、描き方に対する批判や議論はあって然るべきですし、ヘイトや差別を拡散することは問題ですが、この企画の意図を考えれば、当時の人が持つ差別意識を考えて「創作した」と考えられ、「朝鮮人」というツイートにある言葉を切り取って批判するのは、反射的にすぎるでしょう。ただ、このツイートを見たときに、ザラッとした違和感があったことも事実です。

虚構と示されているにも拘らず、なぜこのような反射的な批判が起き、「原典にない」投稿で物議といった切り口でネットメディアが取り上げている事は、この企画のあり方考えるにあたり示唆となり得ます。

近寄りがたい原爆の話題が近づいた

筆者は、広島で大学時代を過ごし、NHK広島放送局でアルバイトをしており、原爆や戦争をどう伝えるか苦労しているスタッフを横目で見ていました。しかしながら、広島に生まれたわけでもなく、親戚もおらず、なんとなく原爆は近づいてはいけない話題のように感じていました。

ですが、シュンの8月6日のツイートを見た瞬間、一気に近く感じたのです。

このツイートに出てくる西川とは、筆者が学んでいた研究室(広島大学文学部哲学科)の西川亮先生(故人)のことで、「どうせ今日中には家に帰れるんじゃ。」という言葉は、すごく先生が言いそうで、埃っぽい研究室の情景がありありと蘇りました。

西川先生の専門はギリシア哲学で、いつも明るいギリシアの話と良い仕立てのスーツや乗っていた外車の自慢をしている豪快な人という記憶でした。しかし、ある時「八本松の駅のホームから大きな雲が見えた、予定通りの汽車で市内に帰っていたら死んどったかもしれん」という体験を語ってくれたのです。ツイートを見て連絡をくれた後輩によると、原爆の話題が出たのは一度切りだったとのこと。

色々と調べてみると西川先生は新井さんと同級生であったこと、日記を書いており、それを持ち寄って記録をまとめていたということも分かりました。

45年4月4日の入学から翌年5月31日まで、14カ月の学年の動きについて吉本幹彦、高田勇、西川亮、新井俊一郎の4君が、克明な日記を残していた。新井君は後に中国放送で報道部長を務めた人である。この日記に個人の持ち寄った情報を加筆し、84年にA5判373ページの大著「昭和二十年の記録」が刊行された。

出典:毎日新聞「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」

75年前、27年前の大学時代、がツイートでつながり、原爆について改めて考えるきっかけとなったのです。このツイートには「始発に乗れなくてよかった」「どうか無事でありますように」といった身を案じるコメントがついており、時を超えて自分ごととして捉えている様子が伝わってきました。年々遠くなる戦争はツイートで近くなったのです。

この時、人々を魅了した企画に率直に感動すると同時に、危うさを感じました。

タイムラインに虚実を混ぜる危険性

この企画が人々を魅了したのは、ツイッターのタイムラインという「現在(いま)」を示す仕組み(アーキテクチャ)に、当時をシンクロさせることで成り立つという構造にあります。そして、そのリアリティを支えているのが日記です。「ひろしまタイムライン」のサイトには、シュン、一郎さん、やすこと3人のアカウントの日記の原文が公開されています。

時間通りに流れている(はずの)タイムラインに、日記という時間軸を持った資料をもとにした虚構を紛れ込ませたからこそ、リアリティが生まれ、共感を引き起こしたのです。ツイッターに書ける文字は少なく、断片的であるからこそ、溶け込むのです。

正確性を重んじれば、注釈をつけ、日記の言葉の通りにツイートすべきかもしれません。ただ、そうすれば3人のツイートは「過去」であることは明確になり、タイムラインにありながら「現在(いま)」に混ざらず、時間的なリアリティが失われてしまいます。何より、説明的になり人々への共感を生むことはなかったでしょう。

実はこのような虚実を混ぜる手法は、筆者が研究しているフェイクニュースで使われている構造でもあります。感情的な情報に嘘を混ぜたり、事実のような嘘にしたりするほうが熱狂を生み、拡散されるのです。

時間通りに流れている(はずの)タイムラインに、突如「朝鮮人」という差別的な言葉が使われていることを目の前にして心が揺れ、たじろぎました。いつのまにか虚構を事実と思い込んでいたことが、ザラッとした違和感の正体だったのです。反射的な批判をしている人からは、本当じゃなかったのか、と我に返るような投稿もありました。

手法の危うさに自覚はあったのか

つまり、人々を魅了したことと批判が起きたことは、同じ構造によるものです。だとすれば、手法の危うさについても議論があるべきでしょう。

過去を現代に紛れ込ませるからこそ、虚実を混ぜるからこそ、資料こそ最も重要になります。ツイートが批判されているとき、筆者は20日の日記を見て確認しようとしましたが、その時はまだ公開されていませんでした。先に日記を公開したら面白くないかもしれませんが、ツイートを創作しているからこそ日記と見比べることができるようにしておく必要があるでしょう。

バズフィードの記事によれば、ツイートの監修は劇作家・演出家が務めているといいますが、企画チームはこのような構造の危険性に自覚的であったのでしょうか。参加している未成年に、困難で危うい役割を与えていることを理解していたのでしょうか。NHKには、説明をブログに書いて終わりではなく、企画を検証し、議論することを求めます。

この批判を取り上げているメディアにも問題があります。ソーシャルメディアで盛り上がっているときは持ち上げ、炎上すれば批判されていると叩くだけでは、戦争や原爆の伝え方がより良くなることはありません。新しい挑戦には批判や失敗はつきもので、その要因にも目を向けてもらいたいです。そして、反射的な批判をした人は、「朝鮮人」という言葉を広島の10代が使った理由を考え、思いを馳せても良かったのではないでしょうか。

この騒動からは、NHKだけでなく、他のメディアやソーシャルメディアを利用している我々が考えることはたくさんあるように思います。