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Macフォン。若きジョブズがやり残した宿題 〜スティーブ・ジョブズの成長物語〜挫折篇(4)

榎本幹朗作家/音楽産業を専門とするコンサルタント
iPhone初期型。そのアイデアの元をジョブズは若き日に既に持っていた。(写真:Reuters/AFLO)

初代Macの売上不振に苦しむジョブズは、パーソナルコンピュータ以上の革新を起こすことで挫折を乗り越えようとする。だが部下たちは理想をひたすら追う彼についてゆけず、やがて孤立してゆく。iPhoneで音楽サブスクの時代を到来させ、音楽産業を救ったジョブズの若き日を描く集中連載第4弾。

■Macフォン。やり残した宿題

 その日、プレイボーイ誌の編集部に一本の電話がかかった。

「スティーブ・ジョブズだ」とその声は名乗り、ジョン・レノン最後のロングインタビューを手がけたデビッド・シェフ記者に繋いでくれと指名してきた。

 それでシェフはApple社に招待された。『ダ・ヴィンチ』『ミケランジェロ』と名付けられた会議室を通り抜け、『ピカソ』という名の部屋にジョブズと入る。そしてロングインタビューが始まった。

 話も佳境に入り、Macもいずれ古くなる日が来るか、とシェフが問うと、若きジョブズは紙を取りスケッチを始め、こう答えた。

 次の進化でコンピュータは携帯できるほど小さくなり、ネットワークに繋がり、電話とすら融合するかもしれない、と[1]。スケッチが整うと、「それはiPadにそっくりなデッサンになった」とシェフは振り返る[2]。

 それこそ若きジョブズが、AT&Tと共に進めようとしていた極秘プロジェクト、後のiPadそっくりの「Macフォン」だった。

 電話の発明者ベルを始祖に持つAT&T社はその頃、Appleとの共同事業を強く所望していたという。これに好機を見たジョブズは、研究段階にあったフラットパネルやタッチスクリーンの技術者を呼び、Appleの取締役会でプレゼンを繰り返していた。

 しかしタブレットに必須のタッチスクリーンは研究の端緒についたばかりで、製品化を取締役会に提案するにはあまりにも未完成だった。

「スティーブは、水平線のかなた、数千マイルも向こうを見ることが出来ます」腹心だったジェイ・エリオットは言う。「でも、そこにいたるまでの道がどうなっているかは見えないのです。これがスティーブの才能であり、失脚の原因です[4]」

 東海岸流のきっちりしたスーツを着こなし、リムジンでやってくるAT&Tの重役陣と、西海岸流にぼろぼろのジーンズを履いた、Appleのエンジニア陣との会議も全くまとまらなかった。そして格上のAT&Tが支配権を言い続けたことで、このプロジェクトは暗礁に乗り上げてしまう[5]。

 若きジョブズの足元は崩れ去ろうとしていた。

 一九八四年の暮れ。販売目標の10%しか達成できず、初代Macの在庫処分が始まった頃。ジョブズの事業部は崩壊状態に入り、すべての開発が止まっていた。全員降格でやる気の失ったLisaチームと、燃え尽きてしまったMacチームから成っていたためである。

 そして、何とか引き締めようと躍起になったマネージャーのボブ・ベルヴィールと、Mac OSの中心的エンジニアだったハーツフェルドが衝突し、大喧嘩になってしまう。

「ソフトウェアチームは完全にやる気がなくなって、何ヶ月もなにも出来てないんだ」と相談するハーツフェルドに、ジョブズは「おまえ、何を言っているのか分かっているのか!」と怒鳴った[4]。 「今が最高潮で、Macチームは上手くやっていて、俺も人生最高の時を迎えているんだ」

 その言葉を聴いて、ハーツフェルドは退職を決意した。対するマネージャーのベルヴィールの方も心が折れ、会社を去ろうとしていた。何年も土日返上で会社に尽くしたため離婚となり、妻と子供を失ったのだ[6]。

 ハードウェアの要だったバレル・スミスも会社を辞めた。ジョブズが、IBMの支配するオフィス環境を奪い取る開発計画を優先し、スミスの進めていたハードディスク付Macの開発を反古にしたからだった。

 敵愾心のあまり、ジョブズはAppleの不得意なビジネス市場へ向かおうとしていた。彼の哲学だったはずの「集中」を欠く戦略だ。

 共同創立者のウォズニアックも会社を去った。じぶんのApple Ⅱ部門がジョブズからずっと蔑ろにされ続けてきたと、彼は記者に答えた。

 その前後、ジョブズは出張で日本に来ていた。

 スタジオ・エンジニアの使っていた巨大なテープ録再機が、手のひらサイズのWalkmanになったとき、音楽生活に革命が起こった。同じようにMacを限りなく小型化する技術はないか、日本に探しに来ていたのである。人類全てがコンピュータを持つ時代を到来させるには、それが最善だと信じていたからだ。

 実際このときSonyにも来社し、尊敬する盛田昭夫と時間を共にしている。

 アメリカから来た若者に昔のじぶんを見た盛田は、みずからSonyの工場案内を買って出てくれた。ジョブズは、工場の整然とした美しさに強く感銘を受けた。帰国後、Sonyの工場ユニフォームをまねて、同じデザイナーに頼んで自身のユニフォームまで作ったと以前、書いた。黒のタートルネックだ。

 夜は盛田の招待で、河豚をごちそうになった。実家のガレージで創業した後、Sonyの事務所の二階をわざわざ選んで会社を移したほどのジョブズだ。敬愛する盛田との食事は夢のようだった。

 盛田もまた、彼が心からかわいがっていた外国人は若きマイケル・ジャクソンとジョブズだけだったと後に語られるほど、この若者を気に入っていた。二人の会話は夜更けまで弾んだ。 (続く)

■本稿は「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」のの続編原稿をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

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[1] Mimi O'Connor, Sarah Fanthorpe "Steve Jobs: One Last Thing"(2011) PBS, 20:00-30:00

[2] David Sheff, "Playboy Interview : Steven Jobs." Playboy, Feb. 1985.

[3] 『スティーブ・ジョブズ パーソナルコンピュータを創った男(下)』第17章 p.190

[4] ジェフリー・S・ヤング, ウィリアム・L・サイモン『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』(2005) 東洋経済新報社 4章 p.175

[5] 『レボリューション・インザ・バレー』Part VI p.278

[6] https://youtu.be/j7hP47HogmY?list=PL-XJ4M5JPVEbPJyJIBcpfdVw3htKwdctu

作家/音楽産業を専門とするコンサルタント

寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。2017年まで京都精華大学非常勤講師。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DU BOOKS)

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