「格差が問題」という考えが、本当の格差を生む:貧乏人をなくす方法

(写真:アフロ)

我が国では、所得の格差、貧富の差が広がっていると言われている。

主な原因は、高齢者人口の増加である。つまり、収入が少なく、年金に頼っている高齢者が増えているため、格差が生じているのである。我が国では歳をとるにつれ、所得の差は広がっていく。また高齢者になると、多くの人は定年を迎えて年金生活に入るが、一方で会社役員などになって高給で働く人もいる。これが、我が国において格差が増えていると言われている理由である。

ゆえに結論として、所得の格差それ自体は問題ではない。それは人口比率の変化という現象にすぎない。したがって、我が国において格差が広がっているかどうかを議論していても、あまり意味はない。本当の問題は見えない。

全体をひっくるめて物事を論じようとするから、一部で生じている問題が隠される。それは、現にいま生きているのだから病気のはずはないと言っているようなものである。問題はつねに個別のところに生じる。本当の問題は、非正規雇用による、若者の貧困層の増加のうちにある。

ここまでは、これまでの議論を整理したに過ぎない。やらなければいけないことは、若者の貧困層をなくすことである。そのための施策を考えていきたい。

格差そのものは「問題」ではない

若者の間でも所得格差は広がりつつある。原因は、非正規雇用である。

統計局がまとめた「最近の正規・非正規雇用の特徴」を見ると、全体として1990年には881万人だった非正規雇用者数は、2014年には1962万人と2倍以上に増えている。割合では20.2%だったのが、37.4%となる。このうち若者の非正規雇用は、15~24歳で20.5%から48.6%、25歳~34歳で11.7%から28.0%へと、大幅に上昇している。たしかに全体としても非正規の割合は増えているが、これは結婚している女性が働きに出るようになったことなどが理由である。20~59歳の非正規雇用者のおよそ8割が女性である。

ここで、年齢別の正規・非正規の所得格差を見てみたい。厚労省の賃金構造基本統計調査によると、20~24歳の正規・非正規の所得は204.9万円と173.4万円であるから大きな差はないが、歳をとるにつれてこの差は拡大していき、50~54歳では402.9万円、202.1万円となる。実に200万円もの差が生じることになるのである。この差はとくに男性において顕著に現れる。若者が将来に悲観し、結婚ができなくなるわけである。

そのため若者のうちに、格差是正のために金持ちである年配者から金を取れという声が生じる。一見するともっともらしい声であるが、しかしそのようなことを言っても仕方がない。問題は格差ではなく、貧乏のほうにある。非正規雇用という貧乏人が増えたから、問題が生じている。金持ちがいなくなっても、貧乏人がいなくなるわけではない。むしろ金を使う人がいなくなれば経済は悪化し、もっと非正規が増える。金持ちとの差、格差それ自体は、貧乏とは関係ないのである。

格差を是正しようというのも無駄

政府がいうような同一労働同一賃金の政策もまた、問題の根本的解決にはなっていない。それは企業への締めつけにすぎない。また企業は、非正規の社員には重要な仕事を与えなくなるだろう。成長の機会が失われる、ということである。もっと言えば、この施策によって非正規が雇用されなくなるということにもなりかねない。さらに酷い貧困が始まる可能性は否定できない。

貧困は原因から生じた症状である。格差が生まれているのは、非正規雇用に満足に給料を払えない状況が続いているからである。ゆえに、非正規雇用に給料をあげるべきだという施策は意味がない。それは問題の解決になっていない。医療では、それを対症療法という。しかし症状は、疾病の原因があるから生じる。原因を取り除かなければならない。

そうであるから多くの場合、我が国の経済の立て直しが急務だという結論に落ち着く。しかしその答えは、何の解決にもなっていない。病気を治すべきだといっているに過ぎない。どう治すべきかをこそ、考えなければならない。

本当の問題は、貧乏から逃れられないことにある

基本的に金持ちは、世の中に必要とされている仕事に就き、実際にその役割を果たしているから、金持ちなのである。搾取しているからではない。ビジネスにおいて価値があるからである。

対して貧乏なのは、貧乏を余儀なくされる仕事に就いているからである。あるいは、カネをもらえない待遇から抜け出せないからである。彼らは、年功序列の対象ではないと思われている。もともと年功序列は、長きにわたってその人を手元に置いておきたいから、生じた。労働そのものではなく、経営に必要であるから、生じた。ゆえに彼らが企業にとって必要ではないことが、問題の原因である。

しかし悔しいではないか。われわれは、一人の人間である。いかなる人間も、その人としての価値をもつ。何らかのビジネス目的を達成できる素養、強みを活かすことができるならば、われわれは必要な人材となる。ゆえに給料は上がる。大切に扱われるようになる。

そうであるから、若者が貧乏から逃れる能力を身につけるための支援が必要になる。企業から求められる人になるための支援が必要になる。これは、売れない能力を捨て去り、売れる能力へとシフトさせるための支援である。

日本の経済を復興させる方法は、生産性の向上である。生産性の低い分野にある資源を、生産性の高い分野に移すことである。ここにおいて最も重要な資源は、人である。ゆえに彼らの資源的価値をいかに高めるかを考えなければならない。

そのためには、認められる努力をさせなければならない。努力が認められることではない。認められる努力が肝心である。努力したからといって成果が上がるわけではない。社会的に価値があるものを生み出すことが、成果である。ゆえにこれから求められる能力を向上させなければならない。努力は戦略的でなければならないのである。

明日を切り拓くための教育を

ようするにやるべきことは、政府主導による、非正規雇用を対象としたビジネス訓練校である。これから必要とされる仕事におけるビジネス能力を身につけるための教育である。例えば、いまの仕事を辞めても食っていけるように、住み込みで昼間は働かせ、夜は教育をやるのである。非正規はすでにお金がない。よってお金がなくても教育を受けられるようにしなければならない。

しかしこのことは、単なるスキルの習得を目指す職業教育を意味しない。そういったスキルは、いずれ陳腐化する。ビジネスにおいて求められるべきは、知識の裏づけのもとに、スキルを習得し続けることのできる者であり、またその能力である。

ゆえに必要なのは、スキルを裏づけるもの、基盤となるもの、すなわち理論の教育である。あるいはビジネスを創造するための、知覚と感性の訓練である。道具はいつまでも道具のままである。道具として扱われてはならない。道具を選択し、現実において使える者にならなければいけない。

ドラッカーは、知識は人の人生を大きく変えたと述べている。「知識は、職業の定められた社会を、職業を選べる社会へと変えた。いまや、いかなる種類の仕事につき、いかなる種類の知識を使っても、かなり豊かな生活を送れるようになった。」知識を得ることによって、人は生き方を選択できるようになった。待遇を良くし、明日を生きることができるようになったのである。

教育を施すのである。魚そのものではなく、釣り竿と、それを使ってうまく魚を捕ることのできる能力を身につけさせるのである。結局のところ、現状から逃れるには自分自身が頑張るしかない。しかし、頑張ることのできる環境は与えなければならない。

本当に目を向けなければならないのは、教育の格差である。すなわち、生きる力の格差である。

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