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【オウム死刑執行から考える】(2) 「公開処刑」を言い募るより

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
死刑執行を伝える7月6日の昼のニュース(写真:Natsuki Sakai/アフロ)

 今回の死刑執行に対して多く見聞きした批判に、当局がメディアに情報を事前にリークし、テレビに死刑を生中継させる「公開処刑」を行った、というものがある。

古代ローマの剣奴の戦い?!

 前回紹介した作家の寮美千子さんのFacebookで紹介されている、もう1つの論評、作家・星野智幸氏の共同通信への寄稿もその1つだ。

〈刑を執行されていく過程が半ばリアルタイム中継のように逐一報じられるさまは、まるで大量連続殺人犯の犯行を生中継で見せられているかのようで、苦痛でしかなかった。

 映画で見るような、古代の剣奴の戦いも想起した。剣奴たちは奴隷なので、競技場で死ぬまで戦うことを拒めない。その殺し合いを見て、「市民」たちは熱狂し、カタルシスを覚えるのである。死刑囚たちはいわば奴隷扱いされたようなものだ〉

 いくら物語を創作するのが仕事とはいえ、想像力の働かせすぎだろう。私は、氏の相撲に関する著書には大いに感銘を受けた者だが、今回の論考は読んでいてかなり気持ちが萎えた。

 死刑囚と古代ローマの剣奴を重ねることは、まったく筋が違うと思う。それに、今回の死刑執行に、「市民」は果たして「熱狂し、カタルシスを覚え」たのだろうか。「見世物」として楽しんだ人が全くいないと言い切るつもりはないが、それは多くの視聴者の気持ちとは違うように思う。あの日、人々はテレビの画面を見ながら、事件当時を思い出したり、いろんなことを考えたりしたのだろうし、「死刑」について考えた人も少なくないのではないか。

 星野さんは、オウム事件についてこうも書いている。

〈「あの人たちは異常だったから事件を起こした」と線引きをすることで、自分たちの中にも内在している「異常さ」の要素を見つめることは、ほとんどなされていない〉

 そのような「線引き」をしている人が多いとしたら、記憶の風化を許してしまった、私を含めたジャーナリズムの責任でもある。それは自覚している。ただ、人間に内在する「異常さ」をみつめる大切さを言うのであれば、それはむしろ、星野さん自身ら文学者の役割ではないのだろうか。

「リアルタイム中継」「公開処刑」にリアリティはあるか

 「リアルタイム中継」「見世物化」という表現を使って今回の執行を非難したのは、星野さんだけではない。もっと苛烈な物言いも飛び交った。

 たとえば、ジャーナリストの斎藤貴男氏は7月12日付東京新聞特報面に、こんなコメントを寄せている。

〈今回の執行は死刑をリアルタイムで見せ物にすることで、国家権力の強大さと毅然とした態度を国民に見せつけた。テロの恐怖を国民に植え付け、オウムだから仕方ない、と思わせる。意図的な公開処刑であり、死刑が政治に利用された〉

 当日の報道に少しばかり関わった私は、彼らからすると「見世物」に加担した者ということになるのだろうが、その私から見て、こうした表現には少しもリアリティが感じられない。

当日朝、私は……

 私自身は事前には何も知らず、7月6日は午前7時頃、携帯電話も持たずに出掛けた。毎週金曜日は、近くの語学学校で早朝の講座に出席する。授業中はどうせ携帯電話は切るので、その後自宅に戻る時は、置いて出るのが当たり前になっていた。

 8時50分を過ぎた頃に自宅に戻ると、自宅の固定電話と置き去りにしていた携帯電話がジャンジャン鳴っていた。その電話で、教祖の執行があったことを知り、すぐNHKに向かった。オウム事件最後の被告人の刑が確定する前から、執行の場合には出演する約束をしていたからだ。

死刑執行の速報を伝えるNHKの画面。私が執行を知ったのは、この少し後だった
死刑執行の速報を伝えるNHKの画面。私が執行を知ったのは、この少し後だった

 局に着いた時には、麻原プラス複数の元弟子の刑が執行された、という情報を報じていたようにと思う。教祖1人が執行されたものだとばかり思っていた私は、元弟子も執行、という情報にかなり衝撃を受けた。

 その後、NHKが確認した死刑囚の名前が刻々と入って来て、最終的に人数とすべての人の名前が明らかになった。

 この時点での民放の報道ぶりはよく分からないが、NHKのスタジオにいる時、「民放では××××の名前を出していますけど、うちはまだ確認がとれていません」という声も聞こえてきた。各局とも、独自に取材を進めて、自局で裏付けがとれた名前を次々に出していく、という形で特番が進められていたのではないか。

死刑執行の速報はこれまでにも

 教祖の死刑執行については、各局ともだいぶ前から特番を準備していたはずだ。そこに刻々と入ってくる情報を、できるだけ早く伝えようとするのは、報道機関としては当たり前ではないか。ましてや、ほぼ前例のない大人数の執行である。そういう重大なニュースを、いち早く伝えようとするのは、報道関係者の習性であり、役割でもある。

 これまでにも、法務省が発表する前に、メディアが死刑執行を速報することは、いくらでもあった。東京・埼玉連続少女誘拐殺害事件の宮崎勤死刑囚の刑が執行された時なども、正式発表よりかなり早い時間帯に報道されていたように記憶している。

水も漏らさぬ情報統制がよいか?

 しかも、執行に関して伝えられた情報は、執行された者の氏名くらいだった。私がスタジオにいる間、執行の状況に関する情報はほとんど入ってこなかったように記憶している。番組は、彼らが関わった事件を振り返ったり、今回の執行対象者などについて見解を述べたりする形で進められており、とてもではないが、死刑の「リアルタイム中継」などと呼べる内容ではなかった。民放も似たようなものだったのではないか。無神経に「公開処刑」などという言葉を用いる人には、その言葉の意味が分かっているか、尋ねてみたいくらいである。

イラクのフセイン元大統領の死刑はテレビで映像が流される「公開処刑」だった
イラクのフセイン元大統領の死刑はテレビで映像が流される「公開処刑」だった

 NHKなど一部の局が、早朝に執行に立ち会うと見られる検事が東京拘置所に入る状況を撮影するなど、事前に情報をつかんでいたような動きもあったことは確かである。それを捉えて、法務省が事前にマスコミを集めてリークし、「公開処刑ショー」を演じさせた、という非難もある。

 しかし、1日に7人も執行するとなれば、事前に様々な人が動くことになる。そのうえ今回は、警備の警察官も配備されているし、直後に公安調査庁が全国各地で後継団体への立ち入り調査を行っており、その準備もあっただろう。

 メディアは、今年1月にオウム事件最後の被告人の刑が確定し、3月に7死刑囚が執行施設のある5拘置所に移送された頃から、「いつ執行があるか分からない」と取材を強化していた。事前に動きをつかんで、張り込んでいたメディアがあっても、まったく不思議ではない。

3月に7死刑囚が移送された時も大きく報じられた(「めざましテレビ」の画面より)
3月に7死刑囚が移送された時も大きく報じられた(「めざましテレビ」の画面より)

 それを非難する人たちは、死刑執行に関しては、当局が水も漏らさぬ情報統制を敷くのがよいと思っているのだろうか。そして、メディアはひたすら当局発表を待つべきであり、これだけの大人数の執行が行われても、ニュース枠の中で1つの出来事として地味に報じるべきだと考えているのだろうか。

 私は、逆だと思う。国家が命を絶つ重大な刑罰権を行使しているというのに、一度に7人もが執行されたのに、これを特別な出来事ととらえて積極的に取材することもなく、公式発表のみを淡々と地味に処理していく報道の方がよほど怖い。

問題はむしろ情報が公開されないこと

 さらに言えば、「公開処刑」どころか、死刑執行についての情報が、あまりにも公開されていないことが、むしろ問題だと思う。

 かつて法務省は、死刑を執行しても、執行の事実と対象の人数しか公表していなかった。氏名や執行場所が明らかにされるようになったのは、2007年12月に鳩山邦夫法相(当時)が発表に踏み切ってからだ。しかし、その後も執行についての詳細は、まったく明らかにされない。執行の順番や時期について尋ねられても、どの法相も答えない。

7人に対する死刑執行を発表する上川法相
7人に対する死刑執行を発表する上川法相

 今回も、上川法相はこの時期に、しかも教祖と同時に6人の元弟子たちを執行した理由などを問われても、何も語らなかった。彼らより早く刑が確定している他事件の死刑囚もいるのに、なぜ、オウム関係者ばかりをまとめて執行したのかについても、説明はなかった。

 一部の死刑囚については、最期の様子や遺体の引き取り手について語ったとされる状況が、メディアを通じてぽろぽろと漏れ伝わってきたが、これも内容は確認のしようがない。もし、死刑囚が激しく抵抗したり、執行がスムーズにいかない事態があったりしたとしても、そういう当局にとって好ましくない情報は、外には出てこないのではないか。

 たとえば、保坂展人・衆院議員(現・世田谷区長)が2009年に、永山則夫死刑囚の執行時の状況について、激しく抵抗したため刑務官が抑え込んだとする伝聞を記載した雑誌記事を挙げ、そのような事実があったのかを質問主意書で質したのに対し、当時の麻生内閣は、「個々具体的な死刑執行に関する事項については、答弁を差し控えたい」とゼロ回答だった。

永山則夫元死刑囚。19歳の時に拳銃を使った連続殺人事件を起こし、死刑が確定。獄中で執筆を始め『無知の涙』などの作品を発表。1997年8月に執行された。
永山則夫元死刑囚。19歳の時に拳銃を使った連続殺人事件を起こし、死刑が確定。獄中で執筆を始め『無知の涙』などの作品を発表。1997年8月に執行された。

 今回、7月6日に執行されたオウム関係者7人について、いくつかのメディアの情報公開請求に対し、法務省は拘置所長が同省矯正局長らに報告した「死刑執行速報」を公開したが、ほとんどの項目が黒塗り。執行の時間も伏せられていた。国家が人の命を絶つのである。この重い刑罰権がいつの時点で、どのように行使されたのかは、明らかにすべきだろう。

 執行に臨んでの心情や遺言などには、当人のプライヴァシーにかかわる微妙な部分もあるだろうが、少なくとも親族や当人の代理人や弁護人を務めた弁護士、さらには被害者などには、こうした情報は求めがあれば開示すべきではないのだろうか。

「いずれ公文書館へ」は半歩前進だが……

 上川陽子法相は、検察庁で保管・保存されているすべてのオウム事件の刑事裁判記録を刑事法制や犯罪の調査研究のために永久保存される「刑事参考記録」に指定すると発表した。「刑事参考記録」の指定が公表されるのは初めてだ。さらに、死刑の執行に関する行政文書も含め、今後、国立公文書館に移管することを検討する、とした。それが実現すれば、いずれ今よりは情報が開示され、今回の執行について検証する材料になるのかもしれない。それは、確かに前進である。ただ、公文書館への移管は、いったいいつ実現するのか、まったく分からない。現時点で発表できる情報は、もっとあるはずだ、と私は思う。

東京拘置所の執行室を前室から見たところ。ガラスの向こうで検察官などが立ち会う。千葉法相の時に写真が公表され、記者クラブに属するメディアには撮影が許された
東京拘置所の執行室を前室から見たところ。ガラスの向こうで検察官などが立ち会う。千葉法相の時に写真が公表され、記者クラブに属するメディアには撮影が許された

 より多くの人がもっと死刑について考えるために、閉鎖的な当局に対して、もっと情報を公開せよと求めたい。そしてメディアに対しては、速報競争ばかりではなく、さらに取材して、人々が考えるための材料を伝えてほしい。

 死刑制度を否定する人たちが、今回の執行や現行の制度、メディアの報道に対して厳しい批判を浴びせるのは、当然だと思う。ただ、怒りにまかせ、リアリティに欠けたり、方向性を誤ったりした批判をいくら展開しても、共感が広がらないだけでなく、肝腎の批判の対象になんの痛痒、影響も与えることはできない、ということも付け加えておきたい。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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