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【老いゆく刑務所・番外編】人はいくつになっても立ち直れる、という希望

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

「ここにいる、今が一番楽しい」――そう言って穏やかな笑みを浮かべるこの老人の表情から、11回もの服役を重ねた暗い過去をうかがい知ることは難しいのではないか。

「今が一番楽しい」と笑顔
「今が一番楽しい」と笑顔

彼が言う「ここ」とは、北九州市でホームレスなどの生活困窮者を支援するNPO「抱樸(ほうぼく)」(奥田知志理事長)が運営する無料低額宿泊所「抱樸館北九州」。社会福祉法に基づいて、低所得者に安価で宿泊場所や食事を提供する施設だ。彼は昨年夏、刑務所を出て、この一室で暮らすようになった。

その経緯を知るためには、前回の事件のことを少し説明しておく。

犯行の動機は「刑務所に戻りたかった」

事件の第一報を伝える2006年1月7日付け西日本新聞の紙面
事件の第一報を伝える2006年1月7日付け西日本新聞の紙面

2006年1月7日午前1時50分ごろ、JR下関駅構内から出火。築60年近くになる、下関のシンボルだった青い木造三角屋根を持つ駅舎が全焼した。出火の原因は放火。火を付けたのは、当時74歳だったホームレスの男性で、すぐに逮捕された。犯行の動機を彼はこう語った。

「刑務所に戻りたかった」

彼は、前年12月30日に福岡刑務所から出所したばかりだった。出所時に、約20万円の現金を持っていた。4年半の服役中に行った作業で得た賞与金だったが、すぐにパチンコで使い果たした。ちなみに、逮捕時の所持金はわずか58円である。

この年の冬は、全国的に寒さが厳しかった。そんな中、彼は小倉駅近くの自転車置き場などで野宿をして年を越した。寒さが身にこたえ、知り合いを頼ろうとしたが、道に迷い、行き着かず、小倉に戻ることに。途中、「腹が痛い」と倒れ込み、救急車で搬送されたが、病院で「どこも悪くない。腹が減った」と正直に申告。入院は許されず、地元の福祉事務所につなげられたが、ここでも隣の市までの電車の切符を渡されただけだった。

北九州市の区役所にも行ってみた。しかし、何の対応もなされない。

この時点で、彼は刑務所に戻るための試みを始めている。具体的には、スーパーなどで2度、菓子類を万引きした。1度目は警察署で指紋や写真を撮られたが、逮捕されることなく釈放された。2度目は、自ら店員に申し出て、やはり警察署に連行された。しかし、簡単な取り調べの後、彼は逮捕されることなく、福祉事務所へと連れて行かれた。そこで、下関駅までの交通費を渡された。「よそへ行ってくれ」との厄介払いだろう。

こうして、彼は下関駅にたどり着いた。駅の中で泊まろうとしたが、鉄道警察官から退去を求められた。いったん外に出たが、寒空の下、行くあてもなく、駅に戻って旅行のパンフレットにライターで火を付け、段ボール箱に放り込んだ。駅舎にはスプリンクラーなどの自動消火設備はなかった。木造のうえ、三角屋根の下は空洞という建物の構造は、煙突のような役割を果たし、折からの乾燥と風もあって、火はみるみるうちに燃え広がった。懸命の消火活動の甲斐もなく、約1時間で駅舎は焼け落ちた。被害額は5億円以上に上った。

焼失する前の下関駅
焼失する前の下関駅

初めてさしのべられた支援の手

どこかで適切な対応がなされていれば…

この経緯と「刑務所に戻りたかった」という動機は、この国の行刑や福祉に関わる人たちに大きな衝撃を与えた。それまで、刑務所と社会での福祉は、まったくつながっておらず、彼のように帰るあてがないまま、満期で出所する者はたくさんいた。それが、その人の人生を不幸にするのみならず、社会に多大な損失を与える結果を招くことを、この事件は示していた。

抱樸の奥田理事長も、事件を伝える報道を見てショックを受けた1人だった。

「この年の1月3日には、私たちは小倉北区で炊き出しをやっていたんです。彼はこの日、北九州にいたんですよね。もし出会っていれば……」

出所から1週間ほどの間に、彼は8つの公的機関と接触していた。万引きという犯罪までやって刑務所に戻る”努力”もした。その挙げ句の事件である。どこかで適切な対応がなされていれば、こんな大事件には至らなかったのではないか。事件の詳細を知るにつけ、そう思えてならなかった。

奥田さんは、彼が勾留されている警察署に行った。捜査中で面会はかなわなかったが、着替えの衣類を差し入れた。

起訴され、拘置所に身柄が移されてから、また会いに行った。放火という凶悪犯。どれほど怖そうな人が出てくるかと身構えていたら、小柄な、いかにも人の良さそうなおじいさんが現れて拍子抜けした。

彼はすでに14回の逮捕歴があり、10回の実刑判決を受けていた。すべてが放火。その刑期を合算すると43年10ヶ月に及び、人生の3分の2近くを刑務所で過ごしていたのだった。しかも、軽度の知的障害があり、過去の事件の裁判では、何度も心神耗弱が認められていた。にもかかわらず、出所後に何の福祉サービスにもつながれなかったのは、当時、刑務所の中と外の社会はまったく切り離されていて、受刑者が福祉につながる機会はなかったためでもある。

話を聞くと、子どもの頃、酒を飲んだ父親に火の点いた薪を腹に押し当てる折檻をされ、大やけどをして以来、父親と火を恨むようになった、という。服をまくり上げて、今も残るケロイド状の傷跡を奥田さんに見せた。

「必ず迎えにいくから」

奥田さんとの間で、こんなやりとりがあった。

――今までの人生で、一番よかったことはなんですか。

彼はちょっと考えて「お父さんと一緒にいた頃」と答えた。そんなひどい父親でも、「お酒を飲まない時はいい人だった」と。

――今までで一番辛かったことはなんですか。

この問いには、こう答えた。

刑務所から出る時に、誰も迎えに来てくれないこと

身元引受人もなく、仮出所もできず、満期が来ると1人で刑務所の門を出る。そして社会の中では一人ぼっち。こうしてすぐ事件を起こした逮捕される。彼の人生はその繰り返しだった。

この言葉を聞いて、奥田さんは「今度は、必ず迎えに行くから」と約束した。

裁判で、奥田さんは弁護側の証人となり、彼の身元引受人になることを述べて、できるだけ寛大な判決を求めた。

検察側の求刑は懲役18年。これまでの犯歴や被害の大きさから、求刑通りの厳しい判決も予想された。そうなると、彼は刑務所の中で90歳を超え、生きて出てくることができないかもしれない、と奥田さんは心配した。

再び生きる希望を見いだせる社会に

しかし、山口地裁が言い渡した判決は、懲役10年だった。しかも未決勾留日数が600日算入され、服役するのは8年余り。判決は、「動機は短絡的で結果も重大」と犯行を非難しながら、軽度の知的障害かつ高齢でありながら、何ら支援を受けられずにいたことを「酌むべき事情」と認めてくれていた。

奥田さんは、山口地検に控訴を断念するよう歎願の手紙を書いた。

〈罪は罪です。裁かれて当然です。しかし私は、74歳の行き場がなかったホームレスの老人が、しかも刑務所にしか自分の居場所が見出すことができなかった困窮孤立の老人が、再び生きる希望を見出すことにできる社会でありたいと思います。彼を生きて更生させることは、社会の側の責任であると思います

検察側は、控訴しなかった。

刑は確定した。奥田さんは、拘置所で面会した。

「とにかく生き抜いて下さい。損害賠償もできないあなたにできることは、生きて出てきて、社会の中で死ぬことです。(刑務所を)出る時には、必ず迎えに行きますから

それを聞いて、彼は声を挙げて泣き出した。そんな彼をなだめようと、奥田さんは差し入れは何がいいか尋ねた。

泣き続けながら、彼は言った。

「ココナッツサブレが食べたい……」

始まった受け皿作り

奥田さんは、服役中も手紙のやりとりや面会を続けながら、出所後の受け皿作りを始めた。廃業した旅館を譲り受け、改装して自立支援の施設「抱樸館」を設立。1階にはレストランを設け、地域の人も美味しくて安いランチを食べられるようにした。

「困っている人の居場所を作ろうと思ったのと、この事件で我々は刑務所に負けたわけですから、刑務所には負けられない、と」

刑務所は、人をえり好みしない。拒まない。しかも扱いは平等だ。たとえおにぎり一個の万引きであろうと、裁判所が実刑を言い渡せば収容する。金持ちか貧乏かで処遇の格差はない。そのうえ、衣食住医は国費でまかなわれる。自由はなく、規則も厳しい代わりに、大事なことはすべて刑務所が決めてくれる安心感もある。何度も行っている人には慣れた場所でもあり、友だちもいて、すんなり順応しがちだ。

そんな刑務所に戻りたい、と彼は罪を犯した。ならば、もっと住み心地のいい、人間としての尊厳を取り戻せる居場所を作ろう。それが奥田さんの決意だった。

刑期が満期になる前年から、奥田さんは仮釈放の嘆願書を提出したり、保護観察所や保護司や福祉・医療に携わる人たちなど、彼の社会復帰に関わる関係者で打ち合わせを重ねた。

もう一人ではない

失敗もしながら新しい生活に踏み出す

昨年6月、彼は刑期を2ヶ月残して仮出所した。奥田さんは妻でNPOの活動を支える伴子さんと一緒に迎えに行った。

それから2ヶ月、彼は奥田さんの自宅で暮らしながら、NPOの活動に参加したり、抱樸館の1階で行われるデイサービスに通ったり、抱樸館に用意された自分の部屋でお試し宿泊をするなど、少しずつ新たな生活の準備をした。

部屋には友だちからの贈り物など小物類がたくさん。持ち物はだんだん増えた
部屋には友だちからの贈り物など小物類がたくさん。持ち物はだんだん増えた

その間、危機がなかったわけではない。奥田家の居間に1人でいる時、床に置いてあった伴子さんのバッグの中をいじっているのを、戻ってきた伴子さんにみつかり、叱られた。その直後、彼は失踪。もうここにもいられない、と思ったらしい。伴子さんやNPOのスタッフが必死に探したが居所は分からない。

奥田さんは、出張先で連絡を受けた。1人になった彼が行く場所はどこか……。考えて、すぐに浮かんだ場所があった。

「パチンコじゃないか」

前回の事件も、有り金をパチンコで失うところから彼の失敗は始まった。一度、彼とパチンコ屋に行って、危なっかしさを感じた奥田さんは、彼と話し合い、パチンコはなるべくしない、どうしてもやりたい時は奥田さんと一緒に行く、使うお金は2000円までというルールを決めていた。

奥田さんの読みは的中した。

パチンコで有り金をすった彼は、その店の近くたたずんでいるところを発見された。伴子さんが涙ながらに「心配したよ~」と彼を迎えた。

失敗をしても、排除されない。自分のために心を痛めてくれる人がいる。彼にとっては、若くして母を失って以来、これが初めての体験だったろう。

デイサービスで作った七夕の竹かざり。彼は短冊にこう書いた。

自分のしあわせ みんなのしあわせ 福田××××」(本人の希望で下の名前は伏せた)

下関駅に謝罪に行く

福田さんは、8月3日に刑期が終了したのを期に、抱樸館に転居。同月25日には、奥田さん夫妻に伴われて、JR下関駅に謝罪に行った。駅長が対応し、謝罪を受け入れて、「体に気をつけて」といたわってくれた。

以後、穏やかな生活が続いている。出所から10か月、次の事件を起こさなかったのは初めてだ。

今の生活で一番のお気に入りは、月曜日から木曜日までの昼間過ごしているデイサービス。

「踊ったり歌ったり、水前寺清子の『♪休まないであるけ~』に合わせて歩いたり体操したり。風呂にも入れてもらって、背中を流してもらったり……」

ようやく得た居場所で友だちもできた
ようやく得た居場所で友だちもできた

抱樸館で行われるカラオケ大会やトランプゲームなどのレクリエーションにも積極的に参加。カラオケでは「北国の春」にハマっている。中で親しい友人もできた。

ボランティアの女性と仲良くなり、文通も。「今度、一緒にアニメ映画を見に行くんや」とうれしそう語る福田さんに、「今のガールフレンド?」と聞くと、「そう」と顔をほころばせた。

もう刑務所には戻りたくない

改めて、今の考えを聞いた。

――これまで、どういう時に火を付けたいと思ったんですか。

「むしゃくしゃした時。どこにも行かれんし。でも今は奥田さんとこにいれるから…」

――もう火を付けたいとか思わない?

「思わない。今、85歳やろ。奥田さんが『100歳まで生きろ』っていうし」

――100歳まで生きたいと思う?

「うん」

――刑務所に戻りたいとは?

「(首を横に振って)刑務所は自由がきかんでしょ。束縛されてるし、1日が長い。懲罰もあるし」

福田さんは、食事の時に納豆がきらいな同囚から納豆をもらうなどして、2回罰を受けた、という。刑務所の中では、受刑者間の物のやりとりを一切禁じている。強い者が弱い者から搾取することを防ぐための措置だが、そういう事情がなくても、なかなか融通はきかせてもらえない。例外を認めて規律が乱れるのを、刑務所側は恐れるからだ。

――これまでの人生で一番うれしかったことは?

「奥田さんと伴子さんが、(仮釈放の時に)迎えに来てくれたこと。今までは、だーれも頼る人おらん。刑務所を出ても行く所ないし、金は使こうてしまうし、1人は寂しい

――一番辛かったことは?

「親父に折檻されたこと。でも、親父も酒を飲まなければいい人だった」

最初の事件は、父親に怒られて追い出され、寒さしのぎに近くの小屋で、バケツにわらを入れて燃やしたところ、建物に火が燃え移った、という事件だという。

事件の原因を取り除くことが社会の安全につながる

福田さんを見守る奥田知志さん
福田さんを見守る奥田知志さん

孤独や寒さ、空腹などのストレスで、「むしゃくしゃした時」や「自分はどこにも行かれん」と絶望的になった時に、彼はつい火を放ってしまった。

ならば、その原因を取り除くことは、新たな事件を防ぐことになり、社会の安全につながる。支援は、彼自身を幸せにするだけでなく、社会から心配の種を減らすことにもなると言えるだろう。

下関駅事件は、塀の内と外が断絶していた縦割り行政の壁に風穴を開けるきっかけとなった。その後、刑務所内に社会福祉士を置き、厚労省が管轄する地域生活定着支援センターと連携し、出所後に行き場が決まっていない高齢や障害のある受刑者の帰住先を出所前から見つける「特別調整」の仕組みができ、2009(平成21)年度から始まった。

福田さん自身は、奥田さんが身元引受人となっていたので特別調整の対象にはならなかったが、地元や刑務所所在地の定着支援センターが協力をし、保護観察所も交えて、早くから法務当局と福祉の連携がなされ、出所に向けた準備を整えた。

定着支援センターは全国の都道府県に設置され、昨年度までに3751人の特別調整が完了。これだけの高齢や障害のある受刑者が、出所後路頭に迷うことなく、新たな居場所を得たことになる。彼らは、その後どういう生活をしているのだろうか。刑務所歴が10回を超えるような人が、本当に再び罪を犯すことなく、平穏に生活できているのだろうか。

その一人を訪ねた。

「なぜ彼が犯罪を……?」

施設長の決断

「今はもう、毎日が極楽みたい」――そう目を細めるのは、大阪府内の軽費老人ホームで暮らす、鼻俊雄さん(86)だ。

鼻さんは、昭和5年生まれ。戦争中に家が空襲で焼け、尋常小学校も卒業まで通うことができなかった、という。しばらく親戚の家に身を寄せ、一時は母の実家の四国へ移り、母1人子1人の生活だった。

しかし、生活は貧しく、16歳の時に初めて窃盗で有罪判決を受けて以降、窃盗罪で服役を繰り返した。手に職をつけようと縫製の仕事に就いたり、建築現場で働いたりもしたが、貧困から抜け出せないまま、罪を重ねた。犯したのはすべて窃盗(盗みを見つかっての居直り強盗一件を含む)だ。

14回目の服役の時に、刑務所の福祉専門官(社会福祉士)に特別調整を勧められ、大阪府地域生活定着支援センターにつながった。

2014年9月、同センターの担当者からこの老人ホームに「空き状況はどうですか」と問い合わせがあった。施設長小名京子さんが、以前、「出所者を受け入れる施設がまだまだ少ない」という声を聞いて、受け入れの意向を同センターに伝えていたからだ。

「軽費老人ホームは行政からの補助金で運営してますし、社会的支援が必要な人に低額で入ってもらっている。そういう施設の役割として、積極的に受け入れるべきだと思いました」(小名さん)

たまたま、その時は空きが出たところで、受け入れが可能だった。ただ、職員の中には、施設の使命を頭では理解しつつ、「犯罪者」を受け入れることに恐怖を感じている人もいた。

小名さんは、「私が責任を持つから」と励まし、情報は全員が共有することにし、女性職員が泊まり勤務の時は自分も一緒に泊まることにして、施設内の合意を取り付けた。

そのうえで、刑務所に出向いて鼻さんと面会した。施設内の生活や行事の写真などの資料を見せ、「どうですか」と問うと、「ぜひお願いします」との答え。

「犯罪者は『怖い』『普通に話せる人ではない』というイメージをもたれがちですが、鼻さんは初めて会った時から、本当に穏やかな普通のおじいさん、という感じでした」

掃除や針仕事に精を出す

ゴミを集めたビニール袋を職員に渡す鼻さん
ゴミを集めたビニール袋を職員に渡す鼻さん

それから出所日まで10日余り。急いで布団や洗面道具などを揃えて準備を整えた。

最初は、緊張気味だった鼻さんも、1ヶ月くらいで馴染み、他の入所者とも打ち解けるようになった。午前中はラジオ体操や施設内のレクリエーションに参加し、午後は施設内のゴミ拾いや周囲の落ち葉掃きなどに精を出す。

「お願いしたわけでもないのに、まるで用務員さんみたいに働いてくれてます」(小名さん)

鼻さんは「なんかせな、体が弱ってしまう。(体を動かすと)健康にもええし。じっとしとくの嫌いやから、なんかしとかないと」とこともなげだ。

支給される生活保護費から施設での生活に必要な経費を差し引くと、月に1万円弱ほどのお小遣いが手元に残る。もともと酒とタバコはやらない。鼻さんは、お菓子やパンを買うほか、端布を買ってきて、バッグや帽子などを作っている。

鼻さんが作った手縫いの帽子とバッグ
鼻さんが作った手縫いの帽子とバッグ

耳はかなり遠くなったが、目は今でも眼鏡なしで糸を針に通せるほどよい。縫い目は細かく揃っていてきれいだ。できたバッグは、「いつもお世話になっているから」と職員にもプレゼント。

「職員の皆さんはよう案配してくれて、ここに来てほんまによかった」と鼻さん。

施設で飼っている犬の「メイ」とも大の仲良しだ。

「孤独じゃない」が大事

外の掃除も日課の一つ
外の掃除も日課の一つ

小名さんは、「どうしてこんな人が、何度も刑務所に行くようなことになったのか、不思議でならない」と言う。

「ちゃんとした社会的生活ができる能力を持ってはる方なのに……。生活に困って(事件を起こした)、とのことなので、どこかで社会的支援につながっていれば、もっと違った形で人生を歩めたんじゃないか。それがなかったのは、すごく不運だったんだなと。それは(職員)みんなが共通して思っていることです」

この老人ホームは、鼻さんの後、4人の元受刑者を受け入れた。罪名は窃盗のほか、覚せい剤取締法違反や殺人。1人は病気で亡くなった。子どもからも縁を切られている男性だが、施設で丁寧な葬儀を営んだ。それ以外の4人は、今のところ特に問題を起こすことなく、施設での生活に馴染んでいる。

軽費老人ホームでは、入居者には個室はあるが、トイレや浴室は共同。いわば寮暮らしのようなものだ。

「プライバシーという点では、サービス付き高齢者向け住宅などより若干劣るけれど、その分、人との関わりが多い。支援が必要な人は、むしろこういう環境の方がいいかもしれない。ここで友だちができて、仲間がいるということ、孤独じゃないということが、犯罪抑止にもつながるのではないでしょうか」

支援が再犯防止につながる

こうした事例を見ていると、人はいくつになっても、周囲の環境次第で更生し、人生の軌道修正をすることが可能なのだ、という希望がわいてくる。

特別調整を経て社会に戻ってきた元受刑者の中には、新たな環境に馴染めず、再び罪を犯してしまう人がまったくいないわけではない。また、行き先が分からなくなり、施設の職員や定着支援センターのスタッフが必死に探し回る、という苦労を経年している施設も少なくないようだ。

しかし、こんな数字がある。

埼玉県地域生活定着支援センター(木内英雄センター長)は、2010年5月の開設から今年2月末までに、176人の元受刑者の居場所のコーディネートを終えている。そのうち、再犯者は16人だった。その割合は9.1%。

一方、2006(平成18)年に法務省が行った特別調査では、出所から1年未満に再び罪を犯す者は、特別調整の対象となりうる帰住先の明らかでない高齢者で49.3%、知的障害者では69.2%に上っている。

調査の仕方が異なるので、単純に比較はできないにしても、特別調整を経て居場所を得たことが、再犯防止にかなりの効果を上げているとは言えるのではないか。定着支援センターは、居場所のコーディネートをするだけでなく、その後のフォローアップをしていて、それも再び罪を犯さずに、社会の中で生活を継続する助けになっているのだろう。

治安を司る法務省にとって、再犯防止は大きな課題だ。現政権にとっての、大きな政策課題の一つでもある。一方、定着支援センターや施設など、出所後の元受刑者に対応する福祉関係者の意識はかなり違う。

「僕らは、再犯防止のため、という意識はない。福祉が必要な人を福祉につなげるというだけ」

そう言うのは、埼玉県の定着支援センターの木内さんだ。

「僕らに再犯防止のスキルはないけれど、福祉のスキルで対応していたら、(再犯防止の)効果があった。本人が刑務所に戻ることなく、新たな被害者も出ず、社会が安全安心になっていけばよい」

発想が異なる二つの力が協働することで、事態をよりよい方向に変える力が生まれてきているのではないか。

特別調整の実績は、年々増えている。各地の定着支援センターが、個々の出所者に合う居場所をコーディネートし、できる限り多くの元受刑者のその後をフォローしていくためには、さらなる人的充実が欠かせない。

小名さんと談笑する鼻さん。いい笑顔だ
小名さんと談笑する鼻さん。いい笑顔だ
ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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