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ルポ「ヘブロン――第二次インティファーダから20年――」(第1回)

土井敏邦ジャーナリスト
ヨルダン川西岸最大の都市ヘブロンは西岸の“ユダヤ化”と“占領”が凝縮された街

【旧市街から追われる住民】

 パレスチナ・ヨルダン川西岸(以後「西岸」)の南部の中心都市、ヘブロンは約20万人のパレスチナ人が暮らす西岸最大の街である。1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領される以前から、商業・工業の中心都市として栄えた。カフィーヤ(パレスチナ頭巾)の生産で知られる「ヘルバーウィ社」、ヘブロンの主要産業だった靴生産の代表的な企業「ナビール靴製造会社」などは西岸でも広く知られる。現在では、西岸だけではなくイスラエル国内にもマーケットを拡げるプラスティック製品の巨大な製造工場も登場している。

カフィーヤ(パレスチナ頭巾)の製造工場
カフィーヤ(パレスチナ頭巾)の製造工場

 旧市街のスーク(市場)は、2000年の第二次インティファーダの前は全西岸地区での中心的なマーケットだった。毎日、西岸全域の町や村、ガザ地区からも、たくさんの人びとが買い物にやってきた。

 しかし第二次インティファーダ以後は、イスラエル当局の政策によって長期の外出禁止令が敷かれ、商店はしばしば閉店を余儀なくされ、客足も遠のいていった。

 さらに旧市街のパレスチナ人住民を苦境に追い込んだのは、1980年頃から旧市街の中心に住み着いたユダヤ人入植者たちの存在だった。

 1929年のアラブの反乱によって、当時ヘブロンで暮らしていたユダヤ人がアラブ人の暴徒によって虐殺、追放された。入植者たちはその土地と家に戻るという名目で旧市街に移住し始めた。

 現在、その数は800人といわれ、その入植者たちを守るために1000人近いイスラエル兵と警察が周辺を警備している。この入植者たちが周辺のパレスチナ人住民を追い出し入植地を拡大するために、パレスチナ人の家々や商店への挑発、暴行、襲撃を繰り返している。

 そのために多くのスークの商店主たちは、店を閉じて旧市街を去り、ヘブロンの新市街や西岸の他の街で新たな店を開くようになった。

かつて西岸中から客を集め、賑わった旧市街のスークは封鎖と入植者の暴行でさびれ、多くの店主たちがスークを去っていった
かつて西岸中から客を集め、賑わった旧市街のスークは封鎖と入植者の暴行でさびれ、多くの店主たちがスークを去っていった

 

 現在の旧市街スークは人通りも少なく、多くの店がシャッターを降ろし、閑散としている。

 「2日前、朝8時に店を開け、午後5時に店を閉めましたが、1シェケル(約30円)も稼げませんでした」とみやげ物屋の店主ジャマール・マラカは嘆いた。

流暢な英語で、スークの歴史と現状を語るジャマール・マラカ
流暢な英語で、スークの歴史と現状を語るジャマール・マラカ

 「この角に立てばいい映像が撮れますよ」とジャマールが路地の角に導いた。路地の上には金網が続いていて、その上に小石やゴミが投げ捨てられている。商店の階上に住み着いたユダヤ人入植者たちが、投げ捨てるゴミである。

 ジャマールは店頭に飾っているスカーフの一つを手に取った。美しい模様の絹製品の一部が汚れている。

 「上から腐った卵を投げられました。時には汚い液体も投げかけてきます」

 金網越しに、屋根の上から警備するイスラエル兵が見える。

 「兵士たちは入植者のあらゆる暴行を目の前にしながら、私たちのことは気にもかけません。入植者たちの暴行を止めてくれと兵士に頼みましたが、まったく止めようとはしないのです。兵士は入植者が私たちに物を投げる暴行をただ見ているだけです。私たちが訴えても、無視するのです。なぜなら、彼らが関心があるのは、私たちをここから立ち去らせ、空き家にして家を奪うことだからです。見てください、どれほどの店が閉っているか。閉店し、店主たちはこの地を離れていったのです」

スークの屋根の上で警備するイスラエル兵は、入植者の暴行を止めることはない。彼らが守るのは入植者だからだ
スークの屋根の上で警備するイスラエル兵は、入植者の暴行を止めることはない。彼らが守るのは入植者だからだ

 みやげ物の製造・販売業者のアベド・シデルの住まいは、スークの通りから奥まった家の2階だった。部屋の壁にはここで製造されるパレスチナ刺繍をあしらった民族衣装や財布、飾り物、カフィーヤが飾られている。これらの製品をミシンで作っているのは、アベドの奥さんで、アベドはその販売を担当している。

アベドの店で売られるパレスチナの民族衣装や飾り物
アベドの店で売られるパレスチナの民族衣装や飾り物

 居間の窓は鉄のシャッターで塞がれたままだ。その窓の向こう側には入植者が暮らす家がある。

 「私の家と入植者の家との距離はほんの20センチほどです。窓の向こう側には入植者がいます」とアベドが言った。

 「この周辺のパレスチナ人住民はいつも安眠できるわけではありません。入植者が棒で窓をたたくからです。驚いて、『何か問題があったのか』と見に出ます」

アベドの家の屋上に侵入する入植者(撮影・アベドの弟、シャーディ)
アベドの家の屋上に侵入する入植者(撮影・アベドの弟、シャーディ)

 「この窓が閉じられたのは20年前です。私は少年でした。この部屋に10人ほどの兵士がやって来て、機械でこの窓を塞ぎました。父が『なぜ私の家を塞ぐんだ?入植者の家の窓を塞ぐべきだ』と訴えると、兵士は『二度とそんな口を利くな!』と父に言い放ちました」

 「以前は、階下に店を持っていて、そこで働いていましたが 今は閉じています。入植者が店に塩酸を撒き、私の仕事場を全て焼いてしまったからです。私の仕事場は三度も燃やされました」

入植者たちの暴行の実態を語るアベド・シデル
入植者たちの暴行の実態を語るアベド・シデル

 「6歳になる息子は5年半前まで、ここで寝ていました。壁の上の方に 小さな穴がありましたが、今は私が塞ぎました。入植者が穴から水を注いだり、卵を投げ込んだり、ヘビを投げ入れたりしたからです」

 「いま11歳の息子は 6年前にお菓子を買いにスーパーマーケットに行ったとき、入植者がその後をつけ、息子の両目に塩酸をかけたんです。それで目が見えなくなり、ヨルダンの病院へ連れて行きました。いま息子は少し見えますが、眼鏡をかけています。目の洗浄と治療のため、三度もヨルダンの病院に行きました」

 「入植者たちは私たちがここを出ていくことを望んでいます。しかし出ていきません。この家は私たちのものであり、パレスチナ人のものだからです。出ていくのは死んだ時だけです。生きている限り、ここを離れません。出ていくべきなのは私たちではなく、入植者たちです。私たちパレスチナ人はずっと昔からここで暮らしていますが、入植者たちはここにほんの50年前にやってきたのですから」

【「沈黙を破る」のヘブロン・ツアー】

 イスラエルのNGO「沈黙を破る」は、ヘブロンに駐留していた元イスラエル将兵たちによって2004年に設立された。イスラエルによる“占領”がイスラエル社会のモラルを崩壊させてしまうという危機感から、占領の実態を国内外に伝えている。

 「沈黙を破る」の活動の一つが、イスラエル内外から参加者を募り、ヘブロン市内を案内するスタディー・ツアーである。約20万人のパレスチナ人住民の中に約800人のユダヤ人入植者が住みつき、その入植者やそれを守るイスラエル兵や警察が住民を支配するヘブロン旧市街の実態を参加者たちに見せ、説明する。

 2016年11月に行われたヘブロン・ツアーにはイスラエル内外から30人ほどが参加した。ガイドする「沈黙を破る」のスタッフ、イド・イブンパズは兵役を終えて学校の教師になったが、8年後、「沈黙を破る」に加わり、ツアーのガイドを担当している。

「沈黙を破る」ヘブロン・ツアーには、イスラエル内外から参加者たちが集まり、ヘブロンの実態を目の当りにする
「沈黙を破る」ヘブロン・ツアーには、イスラエル内外から参加者たちが集まり、ヘブロンの実態を目の当りにする

 ツアーの一行は、ヘブロン市のかつての中心街「シュハダ通り」に入った。通りの入口では、イスラエル兵がグループの中にパレスチナ人がいないかをチェックする。

 シュハダ通りは、かつて野菜や肉、日常雑貨のマーケットなどが立ち並び、買い物客でごったがえしていたが、2002年にパレスチナ人の立ち入りが禁止された。この通りを通れるのは、入植者などイスラエル人やイスラエル兵、警察、それに外国人だけである。かつての賑わいが想像もできないほど閑散としている。

 案内するイドが参加者に説明した。

 「私たちが立っている場所はイスラエルの支配下にあります。今ではこの地区のパレスチナ人住民のほぼ半分はここを離れてしまいました。多くの家は放棄されましたが、まだ数家族が住み続けています」

 「ここはかつて香辛料市場でしたが、沿道の商店は、第二次インティファーダの時にイスラエル軍によって閉鎖されました。ここを走れる車は非パレスチナ人の車だけです。つまりあなたたちも、入植者も、イスラエル人も走れます。しかしパレスチナ人の車は走れませんし、歩くことも全くできません」

 イドは、ヨルダン川西岸の地図を広げ、1993年の「オスロ合意」つまりイスラエルとPLO(「パレスチナ解放機構」/パレスチナ人の代表機関)との和平合意以後の西岸の状況を参加者に解説した。それは次のような内容だった。

ヨルダン川西岸の状況を地図で表示しながら、説明する「沈黙を破る」スタッフ、イド・イブンパズ
ヨルダン川西岸の状況を地図で表示しながら、説明する「沈黙を破る」スタッフ、イド・イブンパズ

 「オスロ合意によって西岸はパレスチナ人が行政権も警察権も持つ『A地区』(西岸の18%)、行政権はパレスチナ人が、警察権はイスラエルが持つ『B地区』(21%)、さらに行政権も警察権もイスラエル持つ、つまり実質的な占領地である『C地区』(61%)に分割されました。

 しかし実質的にはイスラエル軍が西岸の100%を支配しています。パレスチナ人と非パレスチナ人との『安全保障』の問題には、『A地区』でも『B地区』でもイスラエル軍が介入します」

 「ヘブロンは『A地区』ですが、イスラエルは街の中心にある入植地やユダヤ教の預言者アブラムが埋葬され、『ユダヤ教第二の聖地』とされるマクペラ洞窟(イブラヒム・モスク)をパレスチナ人に支配されたくはないために、1997年にイスラエルはパレスチナ自治政府のアラファト議長と新たな合意に調印しました。『ヘブロン合意』と呼ばれるこの合意によって、ヘブロンは二つの地域に分けられました」

 「『H1』はパレスチナ自治政府の支配地区でヘブロン市の80%。『H2』はイスラエルの支配地区でヘブロンの20%で、『シュハダ通り』や『マクペラ洞窟』、さらにキリヤット・アルバなど市に隣接するユダヤ人入植地などが含まれています。『C地区』と同様、実質的なイスラエルの占領下に置かれています。しかし実際には、兵士はH2だけなくH1も24時間パトロールして、全てを支配しています」

 イドは、「シュハダ通り」からパレスチナ人が追放される経緯をこう説明した。

 「オスロ合意の翌年の1994年2月、ヘブロン市郊外のキリヤット・アルバ入植地に住む医者、ゴールドシュテインが、夜中にイブラヒム・モスク(マクペラの洞窟)にやって来て、礼拝中のパレスチナ人を銃で乱射して29人を殺害し、130人以上を負傷させました。

 その虐殺に対するイスラエルの反応は、ヘブロン市内の全てのパレスチナ人を3ヵ月間も続く外出禁止令に置くことでした。イスラエル人のテロ攻撃なのに、パレスチナ人が罰せられたのです。パレスチナ人住民が外出禁止令から解放され、家の外に出ると、街の中心地は封鎖され、パレスチナ人の車は進入禁止になっていました。イスラエル軍はシュハダ通り沿いの商店の経営者に出ていくように命じ、店の扉を締め、溶接しました。商店主が戻って来られないようにするためです」

イスラエル軍によってシュハダ通りのパレスチナ人の商店は閉鎖され、入口の扉は溶接されて塞がれた。
イスラエル軍によってシュハダ通りのパレスチナ人の商店は閉鎖され、入口の扉は溶接されて塞がれた。

(続く)

【注・写真は一枚を除き、すべて筆者撮影】

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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