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ルポ「ヨルダン川西岸」(第二部「南ヘブロン」)・1

土井敏邦ジャーナリスト
隣接するユダヤ人入植地から迫害を受けるパレスチナ人村住民(筆者撮影・以下同様)

ルポ「ヨルダン川西岸」

(第二部「南ヘブロン」)・1

 西岸最大の街ヘブロン市から約20キロ南下した乾燥地帯「南ヘブロン」には、30の村に約4000人のパレスチナ人が、農業と放牧を生業として暮らしている。

 一方、この地域には4つのユダヤ人入植地と8つの前哨基地(outposts)が点在し、その存在が現地のパレスチナ人の大きな脅威となっている。

【入植地に隣接するパレスチナ人村】

 パレスチナ人の村の一つ、オム・アルへイル村はユダヤ人入植地「カルメル入植地」に隣接している。村は入植地が建設される1980年以前から存在していたから、村に「隣接」して入植地が建設されたというのが正しい。

「カルメル入植地」に隣接するオム・アルヘイル村の羊(筆者撮影・以下同様)
「カルメル入植地」に隣接するオム・アルヘイル村の羊(筆者撮影・以下同様)

 2016年10月、初めてオム・アルへイル村を訪ねた。村と入植地の村の青年が、入植地との境界のフェンスを指差しながら言った。

 「あそこには近代的な生活であり、あらゆるサービスが受けられます。電気や水道、道路や医療設備など全てが揃っています。しかしここには何もありません。(間に)フェンスがあるだけです。1センチほどしか離れていないのに別世界です」

 村人たちは欧米の団体から支援された太陽光発電パネルで電気を得ていた。しかし水道施設はない。

 村の長老ハッジ・スレイマンが村はずれにある井戸へ案内した。

 「井戸は60年前に掘られました。私たちの先祖がまだ砂漠で暮らしていた頃、湧き水がなく、礼拝のための手水場もありませんでした。そこで雨水を溜めるる井戸を掘ることになったそうです」

 ハッジ・スレイマンは井戸に被せられている鉄板の蓋を開け、井戸の両端に両足を構えると、その蓋に縛られている綱を両手でたぐり寄せていく。

 「神の御名にかけて、よいしょ!」「よいしょ!」 

雨季に貯水槽に溜めたた水が村の生命線
雨季に貯水槽に溜めたた水が村の生命線

 十秒ほど時間がかかった。井戸が深いことがわかる。やがて水でいっぱいのビニール製の「バケツ」が現れた。予想以上に澄んでいる。この水が住民の飲料水であり、ラクダや羊などの家畜にやる水でもある。

 ハッジ・スレイマンがパンを焼くかまどの跡へと導いた。5年前、イスラエル軍によって破壊された。

 「パン焼き場の煙が 風に乗って入植地の方に来ると言うんですよ。道理が通ると思いますか?煙が来るので パン焼き場を壊すというんです。パン焼き場の問題だと言うけど、その後、彼らは三度も家を破壊したんですよ。家から煙が出ていたのですか?そんなわけがありますか。イスラエルの裁判所は、『かまどを修理してまた使ったら、罰金10万ドルを払え』と言うんです」

 「羊など家畜の糞を乾かし燃料にして、毎日2回パンを焼いていました。朝の5時と夕方の5時です。焼きたてのパンを食べるにはかまどが一番ですが 禁止されてしまった。だから毎日ヤッタ市(南ヘブロン地区の中心都市で、村から十数キロ)まで買いに行かなければなりません。温かいパンも冷めてしまうし、行き来で出費もかさみます。以前は 材料の小麦粉代だけで済みました。しかし家族分のパンを買ってくるのは、とても痛い出費になります。パン焼き場で 慎ましく暮らしていただけなのに」

 「あそこの木々の所までも、私たちは立ち入れないし、何をしようとしても警告されてしまいます」とハッジ・スレイマンが谷の下方、百メートル先の木々を指差して言った。

 「この谷に羊を放牧し、あそこの井戸の水をやっていました。あの辺は私の村の土地です。でも住民はあの井戸の所まで行けません。入植者は行けるんですが、土地を所有する住民は行けないんです」

 「私たちは何の問題も起こさず、平和に慎ましく暮らしているだけなのに、ユダヤ人入植者たちが突然やって来て、そこで暮らす住民を外に追いやろうとするんです。土地を奪っておいて、どこで暮らせというのですか!私たちは子供に食べさせるパンがあればいいんです。

 ユダヤ人が入植地を建て始めたその日から問題は始まりました。1980年から毎日私たちの苦しみは積もっていきました。入植地は見るたびに増設されていきます」

【追放の危機にさらされる村】

 南ヘブロン地区の中心都市ヤッタ市から道路で18キロほど南下したスーシヤ村には、45世帯で約450人の住民がオリーブ栽培など農業や羊の遊牧などで暮らしている。

スーシヤの遠景
スーシヤの遠景

 この村はかつて数キロ先にあったが、そこはイスラエル当局によって「ユダヤの遺跡」とされ、1986年に追われた。この村の東側、村から500メートルほどしか離れていない場所に、「スーシヤ入植地」が遠望できる。

 

 村のリーダー、ナセル・ナワージャがテントの「家」に案内した。外側は雨を防ぐためにビニールで覆われているが、内側は布だ。

 「テントは夏はとても暑いので、断熱材を使っています。スーシヤ村は海抜820mの高さです。だから風がとても強くて、冬には風でテントが壊れてしまいます。テント暮らしはたいへんです」

スーシヤ村のリーダー、ナセル・ナワージャ
スーシヤ村のリーダー、ナセル・ナワージャ

 多くの南ヘブロンの村々と同じく、電気が通っていないために、 太陽光発電で電気を得ている。飲料水は、雨季に貯水槽に溜めた水で5月から8月までまかなえるが、その後はヤッタ市から買わなければならない。

 「1立方メートル当たり35シェケル(約1,000円)です。水をここまで持ってくるのに運搬費用などもかかりますから。でも近くのユダヤ人入植地では2.5シェケル(約75円)です。しかもその水はイスラエル国内の水ではなく、西岸で暮らす私たちの水なのです」

 スーシヤ村は、元の村を追われ、ここに住み着いた1986年以来、イスラエル軍に迫害を受け続けてきた。

 「一番ひどかったのは 2001年でした。第二次インティファーダと、その後の『治安維持作戦』によってスーシヤ村は完全に破壊されました。テントや井戸、水設備など村にあったもの全てです」 

 「この村は他と事情が違い、イスラエルに明確な目的があります。

 村の東側にユダヤ人入植地 西側にイスラエル軍の基地があり、この村が両者を地理的に分断しています。だからイスラエル側は何としても この村を排除したいのです」 

 「あそこの山の周りが『軍用地』であります」とナセルは西を指差した。「そこには水源と農地があり、その周辺を軍が接収して演習を行っています」

 ナセルは、今度は南側の丘を指差して言った。

 「この山一帯の土地は、スーシヤ入植地に属しています。『安全地帯』と呼ばれていて、軍用地ではなく、入植地に属します。『安全地帯』は入植地本体の広さの10倍ほどの大きさです」

 「イスラエルは西岸でいくつもの法律を制定しました。1970年代と80年代には、軍用地に関する法律が整備されました。この周辺の土地はオスマントルコ時代の登記に個人所有として登録されています。だから いきなり軍用地にはできません。オリーブなど農地があり、所有権者がいるのだからです。しかし、イスラエルは違う手段で土地を没収します。例えば『安全地帯』を設定し、住民はその自分の土地を近づけず、耕作できなくなります。やがて『3年間耕作しなかった土地は国有地』というオスマン時代の法を適用して、イスラエルがその土地を没収し入植者に委譲するのです」

 「イスラエルに占領された1967年から今日まで、問題のない日は一度もありません。私たちの生活は ずっと入植者や占領による問題ですよ」と、ナセルの父親、アブ・ナセルが言った。

ナセルの父親、アブ・ナセル
ナセルの父親、アブ・ナセル

 アブ・ナセルの話によれば、スーシヤ村の住民は元々ヤッタ周辺の出身で、ヨルダン統治時代農業で生計を立て暮らしていた。ヤッタ周辺の地域は 元々ベエルシェバ(現在、イスラエル南部の都市)から死海周辺まで広がっていた。

 アブ・ナセルは南の方向にある山並みを指差して言った。

 「あの山の辺りが1948年の境界です。私はあの山の向こうのマサーフィルの出身です。『マサーフィル』というのは女性の耳のことです。つまりヤッタの耳のような場所でした。ユダヤ人たちは それを引きちぎってしまったんです」

 「あの山の上の柱が見えますか?あそこから境界までは200mもありません。 テル・アラドという場所ですが、私たちはそこから移住してきました。だから遊牧民ではありません。

 私は1946年にそのテル・アラドで生まれしたが、ナクバ(1948年の第一次中東戦争で、現在のイスラエル内のパレスチナ人が故郷を追われた「大惨事」)の時に旧スーシヤ村に移住しました。建物は建てずに 洞穴の家に住んでいました」

「イスラエルは1967年に西岸を占領した時から、『ユダヤ人遺跡』を探し始めました。 そして、1986年初頭に『ここはユダヤ人遺跡だから、居住禁止だ』と通告してきたのです。私たちは追い出され、各々の農地周辺に住むことになりました。見てください、 家々が散在しているでしょう?あの家までは2キロはあります。旧村では 一緒に暮らしていたのに追い出されて、ヤッタ市に逃れた者もいました。羊を連れて(西岸北部の街)トゥバスやジェニンの方へ行く者もいました。今でもジェニン周辺にはヘブロン出身者が住んでいますよ。私たちのような者がここから逃げて住み着いたんです」

「1986年から私たちは何もないこの場所で暮らしてきました。あそこの井戸は1985年に私が掘ったものです。ここは雨の時は大変ですから。しかし、イスラエルは1990年以降、建設には当局の『許可』が必要だといってきました。そしてそれらを好きなように破壊していったのです。ともかく大事なのは 私たちがここで抵抗を続けているということです」(続く)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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