この度の緊急事態宣言の中で、「お子様連れのお母さん、お父さんにもつの串焼き5本入りパックを100円で販売」ということを実践しているもつ焼き店がある(ここでの「もつ」は豚の内臓のこと)。店名は「もつ焼 でん」(以下、でん)。経営は株式会社田(本社/東京都千代田区、代表/内田克彦)。2013年にオープンした水道橋店が1号店で、その後、中目黒店、西小山店、蒲田店、戸越銀座店、アメ横店(以上、東京都内)、佐渡金井店(新潟県佐渡市)と展開してきた。「でん」ではなぜこのような売り方を手掛けるようになったのだろうか。

この売り方によって近所付き合いが活発になり、常連客は電車に乗って買い求めにやってきているという(筆者撮影)
この売り方によって近所付き合いが活発になり、常連客は電車に乗って買い求めにやってきているという(筆者撮影)

店を休業して「もつ焼き」のスキルアップにあてる

「もつ焼 でん」はこの度の緊急事態宣言で休業を続けている。もつ焼きはアルコールとセットになっている食べ物ということで、アルコールが売れないことはもつ焼きも売れないことに等しい。ここで代表の内田氏は、飲食店は休業することとし、店内で従業員のもつの串打ちともつ焼きのスキルアップの時間にあてようと考え、それを実践するようになった。

内田氏はランニングを趣味としていて、店に入るまで自宅から町中を駆け抜けてやってくる。この中で見る機会が増えてきたのは「子供食堂」という看板であった。ここで内田氏も「子供を通じた社会貢献」を意識するようになった。そして「このもつ焼きを子供たちに食べてもらおう」とひらめいた。

この時、学校が夏休みに入る時期で、「夏休み応援企画、無料」ということを考えたが、「無料だと、入りにくい人がいる。100円でもいいから、お金をお預かりしてお渡しをしたほうがいい」と知人からアドバイスされた。

そこで「通常営業の時に来店をしていただく機会のない、お子様やお子様連れのお母さんにおいしいもつ焼きを食べてもらう」という企画が整った。

スタートしたのは都内6店舗同時で7月25日から。串打ちは12時から16時までで1店あたり300~400串となる。

もつ焼きの他に惣菜も販売、お子様連れの人には1個200円、お子様連れではない人には、もつ焼き5本セットを含めてすべて300円で販売する。16時から販売し、売り切れと同時に営業を終了する。買い物をしてくれた親子のお子様には昔の駄菓子屋にあったくじ引きを1回楽しんでもらう。

休業中に串打ちを続けることで技術が一段と向上した(筆者撮影)
休業中に串打ちを続けることで技術が一段と向上した(筆者撮影)

「でん」の各店がこのような試みをしていて、各店では思わぬ売れ方をしている。アメ横店は周りに小売店や飲食店が密集していて、ここの経営者や従業員が買い求めるようになり、ご近所づきあいが活発になった。ほかの店舗でも、通常営業の時には来店することがなかった地元の住民が買い求めにやってくるようになった。顧客層が広がっている手応えを感じている。水道橋店は「でん」の中でも最も長く営業していて、常連の顧客も多い。そこでわざわざ電車に乗って買い求めにやってくる顧客もいる。

これらの試みは9月いっぱい継続する予定で、この売上はすべて小児医療施設に寄付するという。また、各店長から今回の試みによって従業員の串打ちの技術が格段に上がったとの報告を得ていて、当初の狙いは達成している模様だ。

次々とトップランナーの下で学ぶ

代表の内田氏は、飲食業の中で貴重な経験を積んでいる。それは、偶然にも飲食業の中でトレンドをつくり上げたトップランナーの下で仕事をしてきたということである。

内田氏の黒縁メガネはトレードマークで、これまで飲食業界の先端的なさまざまなシーンに出没していた(筆者撮影)
内田氏の黒縁メガネはトレードマークで、これまで飲食業界の先端的なさまざまなシーンに出没していた(筆者撮影)

内田氏は1963年5月生まれ。新潟の佐渡島の出身。高校を卒業後上京し専門学校に進み、アルバイトで新宿二丁目のゲイバーで働く。ここでの月給は28万円、普通のサラリーマンの2倍であった。8年間勤務して、飲食業で独立する意識が芽生えるようになった。

そこで「居酒屋で働いて経験を積もう」と考え、求人雑誌で見つけた「八百八町」の梅屋敷店で働くことになった。この店は、1980年代に大きく隆盛した「つぼ八」の創業者である石井誠二氏が同社を退任してから開業した店である。石井氏はワタミの渡邉美樹氏を育てた人物であり、居酒屋の神様と称された。

「八百八町」はつぼ八の路線とは異なり、ファミリーを背景にした住宅街で展開していて、内田氏は同社で10年間勤務した。先に述べた「お子様連れのお母さん、お父さん」に対する思いはここでの経験で培われたものだろう。

筆者は長く飲食業の取材に関わってきたが、その中の時代の先端に位置付けられるような場面の中に内田氏が存在した。

筆者の記憶にある内田氏は、2003年に新宿末広通りにオープンして新宿三丁目の一帯が飲食街としてにぎわうきっかけとなった「日本再生酒場」のカウンターの中にいた。「日本再生酒場」は戦後にブームとなった「もつ焼き」を復活させた存在で、10坪足らずの店舗ながら月商1000万円を叩き出した。同店を運営するいし井グループ(本部/東京都調布市、代表/石井宏治)はこのコンセプトを不動のものとして店名を統一しない形で全国展開を進めていく。

お客様を思いやる気持ちが熱い

2007年9月、「飲食業開業支援」をうたって「飲食店のプランニングで最も優秀と認められた人物に1億円をプレゼント」というコンテスト「伝説の扉」が開催された。そのファイナリストの中に内田氏がいた。筆者はこの黒縁メガネの人物が「日本再生酒場」に居たことを思い出して、「飲食業での独立心が熱い人なんだ」と思った。このコンテストでは優勝を逃したが、審査員の一人、際コーポレーション代表の中島武氏の賞である「中島賞」と「熱演賞」を受賞した。中島氏は、1990年代から「鉄鍋餃子」「北京ダック」といったヒットコンセプトを次々と生み出した人物である。

その後、内田氏は、新宿思い出横丁の「もつ焼 ウッチャン」のカウンターの中にいた。この店は中島氏が出資者として関連していると聞いていた。店内にはジャパニーズロックがガンガンと流れていた。

そして、水道橋の「でん」はオープンしたての当時、知人と食事をしたことがあった。そして黒縁メガネの人物がいきいきと仕事をしていた。そこはかとなく「日本再生酒場」のテイストを感じた。このように筆者の飲食業の記憶の中で、「もつ焼き屋でいきいきと働く」というシーンの中に内田氏が存在している。

内田氏はこれらの経営者のことを「大変お世話になった方々」ということを節々で語るが、内田氏の今日の経営姿勢に大きな影響を及ぼしていることだろう。それは、商売の技術を磨くこともさることながら、お客様を思いやる気持ちだと筆者は感じている。それが「お子様連れのお母さん、お父さん」に表れているのだろう。

素朴なデザインで実直な商売を伝えるのれんは店内に収まっているが、間もなく店頭を飾ることになる(筆者撮影)
素朴なデザインで実直な商売を伝えるのれんは店内に収まっているが、間もなく店頭を飾ることになる(筆者撮影)