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「成長ある限りはプレー」。よもやの指名なしからの引退を撤回した独立リーグの剛球王

阿佐智ベースボールジャーナリスト
福井ワイルドラプターズのクローザー、高橋康二投手

「実感もなにも湧かなかったですよ。夢ではあったんですけど、やっぱりプロ(NPB)に入ったことがないから…。別になにか変わるわけでもない。今までのまま。夢が終わったって…。自分の野球人生終わったんだなって。それだけ…」

 ようやく手の届きそうなところまでやってきた「プロ野球選手」という夢は、結局夢のまま終わってしまった。

 昨秋のドラフト。ルートインBCリーグの新生球団・福井ワイルドラプターズが彼のためにしつらえた会見場は、結局沸き立つことはなかった。その中心にいた高橋康二は、その残酷な結果を冷静に受け止めていた。そして、シーズン中に公言していたとおり、ユニフォームを脱ぐ覚悟を決めた。大学を卒業してから4年、26歳。夢から覚めるにはちょうどいい年齢かもしれなかった。

公式戦登板ゼロに終わった大学時代

 大学時代は「くさっていた」と振り返る。また、お山の大将だった高校時代も含めて「チャランポラン」だったとも。高校時代は滋賀県の無名校のエース。大学の厳しい練習に肘が悲鳴をあげた。その後のリハビリを兼ねた走り込みだけの練習に気持ちはすっかり切れてしまった。いつしかグラゥンドからも足が遠のき、遊び盛りの若さに身をゆだねるようになっていた。監督に退部を申し出たのは3年の春のことだった。

監督は、ただ一言、親に相談だけはしてきなさいと諭した。その通り両親に気持ちを伝えると、大学だけは出てくれ、野球は辞めていいから、という返事が返ってきた。野球を始めて以来、試合があれば、仕事の合間を縫ってでもグランドに足を運んでくれた野球好きの父親だったが、ボールを投げることのできない息子の気持ちを察したのだろう。高橋は決断を監督に伝えるべく、両親からプレゼントされたまっさらの自転車でグラウンドに向かった。その道のり、両親の顔が浮かんだ。監督のもとに戻った高橋は、自転車に乗る前とは逆の決意を述べた。

「続けます」

 3年秋のシーズン、高橋はマウンドに戻った。

「肘が痛くても最後までやってみようかなって。どうせ辞めるなら、痛くても投げればいいやんかって」

 長らく練習からも遠ざかっていた高橋の実戦の場は練習試合しかなかった。それでも、球速は140キロ台半ばまで戻っていた。痛めていた肘はいつの間にか治っていた。最高学年となった次の年には、晴れて一軍キャンプのメンバーに選ばれた。結局、公式戦にはベンチ入りはしたものの、出場することなく引退となったが、不完全燃焼に終わった大学時代を埋め合わせるべく、地元の独立リーグチーム、滋賀ユナイテッド(現オセアン滋賀ブラックス)に入団した。

「大学時代、最後の最後に野球の楽しさに気づいたんです。プロになりたいとかではなく、もう単純に野球をしたいって、純粋な気持ちで独立リーグに進むことにしたんです」

 しかし、現実は厳しかった。大学4年間の上積みはほとんどなし。ドラフトという夢をもう一度つかもうと必死で打席に入ってくるバッター相手に高橋の球は通じなかった。2年間で0勝7敗。高校時代以来の先発マウンドにも何度か立ったが、昔同様に仕事の合間をぬって球場に足を運んでくれる父親の前でついに勝ち星を挙げることはできなかった。

滋賀時代の高橋
滋賀時代の高橋

移籍先で開花するもドラフト指名はならず

 ドラフト当日。周囲の期待とはうらはらに、高橋は半ば覚悟していた。

「期待はしていなかったですね。7割方かからないだろうって」

 一昨年、2シーズンプレーした滋賀から福井(当時・ミラクルエレファンツ、2020年シーズンからワイルドラプターズ)に移籍したことが転機となった。2019年シーズン、移籍先でクローザーに定着した高橋は37試合に登板、初勝利を含む1勝2敗9セーブ、防御率2.63の好成績を残した。フォームを修正したことが功を奏したのか、ストレートは150キロ台に達するようになった。そして次の年、福井の試合には、噂を聞きつけたスカウトが誰かしら張り付くようになった。

 そして、2020年ドラフト会議。BCリーグから指名を受けたのは、育成指名の5人。しかし、その中に高橋の名はなかった。

「育成2巡目終わったくらいから絶対ないって思いました。高校生なんかが名前呼ばれていましたから」

 タイトルこそ逃したものの、高橋は2勝負けなし10セーブ、防御率1.37の成績を挙げ、リーグナンバーワンのクローザーとなった。1つ差でセーブ王のタイトルを逃したのは、シーズン最終盤の先発登板があったことが原因だったといっていいだろう。

「スカウトさんから先発はできないのかっていう声があって」

 年齢的にも即戦力として見た場合、「使い勝手の良さ」は指名への近道となる。高橋は監督と相談の上、久々のまっさらなマウンドに上がることにしたが、これがあだとなった。

 この2シーズン、守護神としてフル稼働。おまけにこの両シーズンの間には、ウィンターリーグで武者修行すべく、オーストラリアン・ベースボール所属のオークランド・トゥアタラに参加すべくニュージーランドへも飛んでいる。シーズン前半、無敵を誇ったストレートの威力は、疲れからか、シーズン後半、かなり落ちていた。その状況での先発転向で結果を残せなかったのは当然のことかもしれない。調整法も変わる中、イニングが進むとフォームが崩れ、力めば力むほどスピードは落ちた。そのせいもあって、次のマウンドまでは1週間の休養が必要となった。

(2019年シーズンのオフにはウィンターリーグに挑戦するため、ニュージーランドに渡った)
(2019年シーズンのオフにはウィンターリーグに挑戦するため、ニュージーランドに渡った)

 それでも、調子を落としたのは決して疲労のせいではないと高橋は言う。

「シーズン前半は調子良かったんです。ラスト1年、155キロくらい出せればいいかなくらいの気持ちでシーズンに臨んだんです。最初は注目もされてないし、ざっくりとした目標に対して楽しんでやっていたんですよ。それがスカウトから注目されるようになって、プロにどうしても進みたいっていう気持ちに変わったんです。そこからですね。力みが出てきたのは。確かにそれまでもプロに入りたいとは漠然とは思っていましたけど、それを実感しているかいないかっていうと、していなかったです。その違いです。2020年はプロへの門が目の前に現れて…。よりそこに入らないといけないって自分の中で思い始めたって感じです。そこからバランスを崩して、フォームも崩してってなったんですね」

 チームは2年ぶりにポストシーズンに進出した。しかし、一発勝負のトーナメント方式となったプレーオフ2回戦。7回まで5対1とリードし、決勝が見えてきた中、勝利は高橋の、そして福井の手から逃げてしまう。ポストシーズンに入ってクローザーに再転向した高橋が、マウンドに登ったのは、相手チーム・信濃グランセローズが猛烈な追い上げを見せ1点差とし、なおも2、3塁にランナーを背負った8回裏ノーアウトの場面だった。ここで高橋は、最初の打者を三振にきってとるが、その後連続四球を与えてしまい、同点に追いつかれてしまう。そして、延長11回。サヨナラツーベースで福井の2020シーズンは終了した。その瞬間、高橋はマウンドに崩れ落ちた。

「もともとブルペンでも調子が悪かったんです。終わった後は、もうずっと泣いてました。全部自分の責任みたいに感じましたね。目論見としては、抑えから先発もし、チャンピオンシップではクローザーに戻って優勝、そしてドラフト指名という感じだったんでしょうね。でも欲張り過ぎました」

 ドラフト当日。高橋の覚悟は決まっていた。

福井のクローザーとしてフル回転した2020年の高橋
福井のクローザーとしてフル回転した2020年の高橋

成長できる限りはプレーを。選択した茨の道

 ドラフトが終わってすぐ滋賀に帰った。

 それからの2週間を「ひきこもり」と高橋は自嘲気味に話す。ほとんど人と会うどころか、外出もせず、ベッドに寝転がっていたという。思えば、野球を始めて以来、体を動かさない日々を送るのは初めてのことだった。

「最初の2、3日は、毎日、食事とか柔軟とかトレーニングとか気を遣わなくていいっていうのは楽だなって思ったんですよ。何食べてもいいっていう楽な感じもあって…。でもずっとひとりでいると、ネガティブになっていくっていうか…。途中で、人生終わったなって感じになってきました。これから何しようかな、自分に合うのは何かなって考えるようになりました」

 気を紛らわせるため、リーグが斡旋してくれる就活支援も頼った。「引退」したなら、当然セカンドキャリアも考えねばならない。

「それで会社を紹介していただいて、やっぱり自分の力、努力次第で上がっていける営業系がいいかなって。野球を通じて、僕も短期間で球速を伸ばして、成長するにはこういう考えが必要とかいろいろ分かった部分があったので…。まあ、自分次第で変われるような職に就きたかったというのはありましたね」

 そこに1本の電話が入った。球団オーナーからの食事の誘いだった。足代の心配はするなというオーナーの言葉のまま、高橋は東京行の新幹線に乗った。

 大学時代、1度も公式戦のマウンドに立てなかった男が、独立リーグに来て4年で花開いた。その開花した才能を周囲の誰もが惜しんだ球団オーナーは、高橋の気持ちを今一度確かめるべく膝を突き合わせて話をした。

「ようやくドラフト候補になって、ここで野球を辞めてコロナ禍の中、新しい仕事を探すより野球を続けた方が絶対いい」

 オーナーは高橋を説得しようとした。自身、大学時代主力投手として活躍しながら、プレー継続という夢ではなく、実業という現実世界を選んだ悔いがあったのかもしれない。

「まだ成長途中だろ、辞める必要があるのか」

 この言葉に、一旦は封印した野球への未練が頭をもたげてきた。

 1泊して東京からの帰り際、幼馴染にも会った。美容師の道を選び上京し、店長として頑張っているその幼馴染からも、野球を辞めて欲しくないという言葉を受け取った。高橋の心は決まった。

「それまで辞めるのを年齢のせいにしていたんです。周りの目線なんかも気にしていました。いつまでやっているんだって。でも、東京で頑張っている彼を見て、辞めるっていう選択が、情けなく思えてきて、まだ自分が成長途中なら成長するまでやってみたいって、そういう気持ちになりました」

 滋賀に帰って、今一度考え、現役続行の決断をまずは父親に伝えた。驚いた父だったが、内心喜んでくれていることはすぐにわかった。そして、最終的な去就をいまだ伝えていなかった球団社長に連絡した。

「来シーズンもよろしくお願いします」

 高橋は今、東京で自主トレーニングに励んでいる。球団オーナーがつてを頼って練習環境を整えてくれたのだ。11月末から、紹介されたアルバイト先に住まわしてもらい、週2回、配送の業務につき、あとはジムでトレーニングをしたり、グラウンドでキャッチボールをしたりしている。アルバイトの日当は1万3000円。野球するだけの身には週2回でなんとかやりくりできている。

「住むところも含めて野球ができる環境は整えていただいていますから。今の僕はみなさんからの支援で成り立っています。ありがたいです」

 今年も独立リーガーというある意味茨の道を歩み続けることになった高橋だが、ゴールはもう設けないと言う。

「『今年で終わり』なんて自分で決めるもんじゃないなって昨シーズン、いろいろ経験して思いました。先のことなんてわからないのに、シーズン前に言うもんじゃないなって。そのときの自分に聞かないとわかりませんから。とにかく今はシーズンを純粋に楽しみたい。それだけです。もちろん、目標はNPBっていう思いしかないですよ。でも、一方では、ドラフト云々よりも、160キロを出したいなっていう単純な目標もありますね。去年、NPBっていう目標が手の届きそうなところにきて、それで縮こまってしまったんで。やっぱり人間、目標以下にしかならないなって思ったんです。だから、『160』っていう目標を設定して、その結果としてNPBがついてきたらいいかなって今は思っています。今振り返ってみると、BCリーグ選抜チームでNPBのファームと試合したとき、僕は結果を残せなかったけど、ドラフト指名された選手は、そこでやっぱりすごいピッチングをしていましたから。彼らは確かにシーズン後半にピークをもってきていました。僕は、シーズン後半の落ちが半端なかったんで。それを考えると、ドラフト指名を勝ち取るには、ピークをどこにもってくるというタイミングだけの話だと思います」

 福井ワイルドラプターズのキャンプインは10日。高橋康二は、160キロとドラフト指名という大きな夢を抱えて独立リーグ5年目のシーズンに臨む。

自主トレ中の高橋投手(本人提供)
自主トレ中の高橋投手(本人提供)

(キャプションのない写真はすべて筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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