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あのマニー・ラミレスが現役復帰宣言。「お騒がせ男」の度重なる「現役復帰」の歴史を振り返る

阿佐智ベースボールジャーナリスト
メジャーリーグで通算555本塁打を記録したマニー・ラミレス(写真:ロイター/アフロ)

 ボストン・レッドソックスなどでメジャー通算2574安打、555本塁打を記録したレジェンド、マニー・ラミレスが、3年ぶりの現役復帰を目指しているとの報道が世界中を駆け巡った。ラミレスが目指す舞台は台湾。彼は2013年、台湾リーグ・CPBLの義大ライノズでプレーし、.352の高打率と8本塁打と格の違いを見せつけ、チームの前期優勝の立役者となっている。しかし、前期終了後に突如退団。主砲を失ったチームは後期は最下位に沈んだが、そんなことはこの自由人にはどうでもいいことのようで、「家族との時間を大切にしたい」と言ったその舌の根も乾かないうちに、レンジャースとマイナー契約し、バスに揺られながら3Aでモーテル暮らしをしていた。

 実は彼は、「引退」と「現役復帰」を繰り返している。その度にファンをワクワクさせ、復帰先で爪痕を残しているのだが、今回はその「行ったり来たり」の歴史を振り返ってみよう。

メジャー時代も「引退撤回」

 ドミニカ生まれのラミレスは、13歳で一家でニューヨークに移住。高卒後にインディアンスからドラフト指名を受け、プロの世界に飛び込んだ。3年目にはメジャーデビューを飾っているのでスピード出世と言えよう。メジャー3年目となった1995年にポジションを確保した後は、リーグを代表するスラッガーに成長。29歳になった2001年にレッドソックスに移籍した後が全盛で、8シーズン弱で274本塁打を放っている。

 しかし生来の気ままな性格からか、チームメイトやスタッフとのトラブルも多く、2008年シーズン途中に三角トレードを経てドジャースに移籍となった。この頃から、彼のトラブルメーカーのイメージは増幅される。ドジャース2年目となった2009年にはドーピング検査にかかり50試合の出場停止。調整のため7年ぶりのマイナー生活も味わった。

 3Aで復帰を飾った後、A級カリフォルニアリーグに移動、A級での初戦には特大のホームランで満員の田舎町の球場をわかせた。マイナーでの最後の調整となったチームの本拠、サンバナディーノでの連戦は、さながら「マニー・フェスタ」状態となり、チケットはすべてソールドアウト。グッズショップに積まれた彼のネームが縫い込まれたレプリカユニフォームが飛ぶように売れた。ラミレスのホームランをこの目で見たという長年のファンは、興奮気味に話してくれた。

「奴がバットを振ると、打球は一直線にフェンスの向こうの木の上を越えていったよ。やっぱりマニーはマニーなんだ」

ラミレスがプレーしたA級サンバナディーノのパンフレット
ラミレスがプレーしたA級サンバナディーノのパンフレット

 しかし、翌2010年。ラミレスは再びサンバナディーノに戻ることになる。メジャーでは、打率は3割を超えたものの、ホームランは8本。ベンチを温めることも多くなった彼は、シーズン終盤にホワイトソックスに放出されることになったが、ここでも1本塁打と振るわず、オフにはレイズにトレードに出される。そして捲土重来を期するべき翌2011年シーズンが始まった途端、突如として引退を発表。その後にキャンプ中のドーピング検査で陽性反応が出ていたことが発覚するというドタバタ劇での「引退」となった。

 この引退宣言は、結局、ラミレス本人がドーピングによるMLBの処分を受け入れることにより撤回、現役復帰とともにメジャー復帰を目指してアスレチックスと契約したが結果的には彼のメジャーでのプレーはレイズでのものが最後となった。

太平洋をまたいでの「引退」と「現役復帰」の行ったり来たり

3A時代のラミレス
3A時代のラミレス

 ラミレスの気まぐれともいえる「引退」は、その後も続く。アスレチックスと契約した2012年シーズンだったが、開幕を3Aで迎え、本塁打ゼロのまま、シーズン半ばで自ら退団。この退団は、引退ではなく、他球団でのメジャー契約を目指してのものだったが、この年で四十路を迎えた老兵にオファーを出す球団はなかった。

 彼にオファーを出したのは、台湾球界だった。2013年、この年球団を買い取り新生ライノズを発足させた義大は、ペナントを獲る戦力として、また集客の目玉として、メジャーのレジェンド、マニー・ラミレスにオファーを出し、これをラミレスも受け入れたのだ。

 台湾球界は「マニー・フィーバー」にわいた。観客動員はうなぎのぼりで、彼の打棒に引っ張られるかたちでチームも首位を独走。3年ぶりに前期優勝を飾った。ところが、チームの前期を優勝を見届けると、ラミレスは突如として退団を発表。「家族と過ごしたい」というその言葉から、今度こそ引退するのかと思われたが、アメリカに戻ると、レンジャーズとマイナー契約を結び、3Aでプレーすることを選んだ。

 私はこの時、彼のアスレチックス時代の本拠、サクラメントの球場で彼の姿を目にした。試合直前、ベンチに出てきた彼は、やおらマジックを取り出し、なにやらつぶやきながら、ベンチ奥の看板に自らのサインを残していた。古巣の本拠にやってきて何か思うところがあったのだろうか。その試合、彼はスターティングラインアップに名を連ねたが、彼が打席に立っても人もまばらなスタンドがわくことはなかった。次から次へと新しいスターが現れるアメリカでは、すでに彼の時代は終わっていた。

久々の「古巣」にやってきてベンチの看板にサインをしていたラミレス
久々の「古巣」にやってきてベンチの看板にサインをしていたラミレス

 翌2014年、彼はカブスとコーチ兼任のマイナー契約を結んで3Aでアメリカでの最後のシーズンを送り、そのオフの母国・ドミニカでのウィンターリーグのプレーを最後に一旦バットを置く。2015年、ラミレスはカブスのフロント入りをするが、この時は「引退」を口にすることはなかった。

高知に上がった打ち上げ花火

 そんなラミレスの「現役復帰」話がもちあがったのは、日本の独立リーグでのことだった。2シーズンの空白を経て、2017年の年明け、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスとの契約が発表されたのだ。この球団は、国外での活動に積極的で、前年にアメリカで行ったトライアウトが縁となり接触があったという。

 本当に来日するのか、来日してもプレーするのだろうか、そんな関係者やファンのやきもきをよそにラミレスは独立リーグでのプレーをスタートさせた。契約はNPB球団が外国人選手との契約を行うリミットの7月末まで。彼の目標は、あくまで「日本のメジャーリーグ」だった。さすがに45歳とあって往年の力はもうなく、速球には対応しきれてはいなかったが、独立リーグでは圧倒的な数字を残した。

 気分が乗らねば試合場に来ないなどの「職場放棄」もあったが、球団は彼を好きにさせた。報酬はリーグ規定の月40万円以上は支払えないが、選手・指導者全員が入る郊外の寮住まいは免除、高知市内の高級ホテルの一室があてがわれた。球団オーナーの口利きで市内での飲食は「つけ払い」。中には話が通っていない店もあったが、おおらかな高知人たちは、ラミレスを受けいれた。そんな、球団、地元の「おもてなし」にラミレスも高知をすっかり気に入り、オフにはサイクリングを楽しんでいたという。そんなラミレス見たさにファンは球場に押し寄せた。普段は閑古鳥の鳴くスタンドは、台湾と同じように「ラミレス・フィーバー」にわいた。

高知時代のラミレス
高知時代のラミレス

 彼の「引退試合」となった前期最終戦。普段は解放しない外野席までファンが押し寄せる中、ラミレスは逆転ホームランを試合中盤に放った。「最後の最後」にそれまで地元で見せていなかった一発を放つのは、彼が生まれながらのエンターテイナーであることを示していた。

 試合後も名残を惜しむファンにもみくちゃにされていたラミレスの姿を見て、ほとんどの人が「引退」を感じたのだが、話はこれで終わらなかった。いったん帰国したラミレスだったが、その後、高知球団との契約延長が発表され、彼は後期シーズン開幕とともに高知に帰って来たのだ。しかし、後期シーズンは始まって間もなく、彼は膝の故障を理由に「一時帰国」してしまう。その後、なんの音沙汰もなく、ラミレスが再びファイティングドッグスの赤いユニフォームに袖を通すことはなかった。

そして台湾へ?

 あれから3年が経とうとする今年、2020年。高知球団関係者のもとにラミレスからの連絡があったことが耳に入ってきた。「また高知に行きたいよ」という他愛もない内容だったが、これを再びプレーしたいと取るものはいなかっただろう。なにしろ彼ももう今年で48歳。おそらくはアメリカで悠々自適の生活を送っている彼が、独立リーグとは言え、プロのフィールドでプレーできるとは誰しもが思わなかったに違いない。

 しかし、よくよく考えてみれば、彼は高知を去るとき、決して「引退」を口にはしていないのだ。

 そして今回、彼の台湾球界復帰の報道が流れた。獲得を目指している球団名はまだ明らかにはされていないが、ラミレス本人もプレーには前向きで、フィールドでのプレーはシーズン中盤と具体的なスケジュールもあがってきている。

 思えば、現場への「行ったり来たり」も彼にとっては、「引退」云々ではなく、気ままな現役生活の一部なのだろう。なんと言っても、彼にはファンの歓声の中、バットを振り回す姿が似合っている。

 コロナ渦の中、無観客でいちはやく開幕を迎えた台湾プロ野球だが、段階的に観客を入れることも検討され始めているという。台湾社会がコロナに打ち勝ち、スタンドにファンが戻ってきた最後の仕上げには、そのスタンドを満員にするラミレスの姿がフィールドの中心にあることを思いながら、我々も日本の遅い球春を待ちたい。

(文中の写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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