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元ATPメディア担当者が明かす、ロジャー・フェデラー夜明け前の日々(後編)

内田暁フリーランスライター
(写真:ロイター/アフロ)

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 ロジャー・フェデラーが全豪オープンで戦う時、彼のファミリーボックスにはいつも、あるオーストラリア人の老夫婦が招待される。

 彼らは、フェデラーが10代の時に師事したコーチ、ピーター・カーターの両親。そしてそのカーターこそが、フェデラーを王者に導いたと言われる人物だ。

 ATPツアーの広報担当としてフェデラーを16歳の時から知り、現在はBBCラジオなどでコメンテーターとして活躍するデビット・ロウが、近頃、王者になる前のロジャー青年の、苦闘の日々を回想した。そのロウが、「フェデラーのキャリアに最も影響を与えた人物」として名を挙げたのが、コーチのカーターである。

 フェデラーがカーターに初めて会ったのは、彼がまだ9歳の時のこと。ケガもあり自身のプロキャリアに見切りをつけたカーターは、指導者としての職を求めてバーゼルに渡った。この時、カーターは25歳。フェデラー少年にとりオーストラリアから来た若きコーチは、年の離れた兄のような存在であり、後年は良き友人でもあったという。

「オーストラリア・テニスの形質は、僕のDNAに組み込まれているんだ」

 4年前にフェデラーは、カーターの存在の大きさを、そのような言葉で述懐したことがある。

「厳しい特訓哲学は、オーストラリアのテニスの核を成すものだ。そして僕も若い頃に、コーチのピーター・カーターからその精神を叩き込まれた」。

 カーターが、僕の人格形成にも最も大きな影響を与えた存在だ――この時フェデラーは、そう付け加えてもいる。

 2001年にウィンブルドンのセンターコートでピート・サンプラスを破るも、その翌年は同大会の初戦で敗れたフェデラーの、当時の評価は「精神的に崩れやすく、戦績も安定しない」というものだった。そんなフェデラーを喜ばせたニュースが、癌と闘病中だったカーター婦人の、病がほぼ完治したこと。そのお祝いとしてカーター夫婦は、旅行に行く計画を立てた。行き先は、フェデラーの提案で南アフリカに決まる。そこは、フェデラーの母親の生まれた国でもあるからだ。

 2002年8月1日――フェデラーの21歳の誕生日を1週間後に控えたこの日、フェデラーはカナダオープンを戦うためにトロントに、そしてカーター夫妻は、計画通り南アフリカのクルーガーナショナル・パークにいた。

 二人を乗せた車は、世界有数の鳥獣保護区を走り、そして、対向車との接触を避けようとして、崖から転落する。横転した車内で、運転手と乗客……つまりカーター夫妻は、命を落とした。

 トロントでこの訃報を聞いた時、「フェデラーはホテルのロビーを駆け抜けて道路に出ると、叫び、慟哭した」というホテル関係者の証言が残っている。この大会を取材していたスイス人記者も、涙を流す彼の姿を覚えていると言った。

 先述したデビット・ロウは、この時を境に、フェデラーは「変わった」と言う。

「命に限りがあることを、強く悟ったのだろう。急速に成長し、彼は大人になった」。

 恩師の死が、やんちゃで知られた才能豊かな若者を成熟させた……という解釈は、やや安易に聞こえるかもしれない。ただカーター夫妻の不幸から程なくして、彼の快進撃が始まったのも事実である。翌2003年にフェデラーは7大会で優勝し、その中には、彼にとってのグランドスラム初タイトルであるウィンブルドンも含まれる。

 カーターと並び、ロウが「フェデラーのキャリアを変えた存在」として名を挙げたのが、妻のミルカ・フェデラーだ。二人は、ともにスイス代表として出場した2000年シドニーオリンピックで出会い、フェデラーの猛アタックの成果として2002年ホプマンカップで混合ダブルスを組む。後にフェデラーは、「試合では負けたけれど、僕にはどうでも良いことだった。だってミルカとダブルスを組んだ時点で、僕は勝利を手にしてたんだから」と、照れた笑みに相好を崩し振り返った。

 先のウィンブルドンで、35歳にして19のグランドスラムを手にしたフェデラーは、「いつまで」を問う周囲の声に「分からない」と応じながらも、“Xデイ”の明確な定義を述べた。

「ミルカが『もうツアーに同行することはできない』と言えば、それまでだ。その時がラケットを置く時かな」。

 8度目のウィンブルドン優勝を成した時、フェデラーの歓喜の表出は控えめだった。

 その目から堪えきれず涙がこぼれ落ちたのは、ファミリーボックスの縁に座る4人の子供たちと、それを見守るミルカの姿を見たときである――。

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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