元ATPメディア担当者が明かす、ロジャー・フェデラー夜明け前の日々(前編)

2000年、当時18歳のロジャー・フェデラー(写真:アフロ)

 いかなる偉大な記録にも、始まりの時はある。

 もっと言うなら、始まりの前にも物語はある。

 先のウィンブルドンでセットを落とさずに優勝し、大会史上最多記録となる8度目のタイトルを手にすると同時にグランドスラム優勝記録を19に伸ばしたロジャー・フェデラーの、その始まりの時は14年前。今に連なる「1」を刻んだ地は、やはりウィンブルドンだった。

 近頃、そのフェデラーの“始まりの前の日々”を、BBCラジオなどでコメンテーターとして活躍するデビット・ロウが明かしている。ロウは現在の職につく以前は、ATPツアーの広報担当として、選手とメディアをつなぐ役割を果たした人物だ。

 今を遡ること19年――ウィンブルドンジュニア部門で単複優勝し将来を嘱望された16歳の少年は、地元スイス・グシュタード開催のATPツアー大会に、主催者推薦を得て出場した。これが、後の偉大なるチャンピオンにとっての“始まりの始まり”たるATPツアーデビュー戦。そしてこの時、広報担当としてフェデラーに“メディア対応のいろは”を指南したのが、ロウだった。

 今よりも遥かにテニス界を取り巻く商業色が薄かったこの当時、未来のスター候補である16歳の周辺に、ものものしいエージェントやマネージャーの姿は無かったとロウは記憶する。エネルギーに溢れ、おしゃべり好きで好奇心旺盛な若者は、目にする何もかもが物珍しい様子で、目を輝かせながら“ATPツアープレーヤー”としての初体験を楽しみ尽くしていたという。

 ロウが「ATP広報担当のロウです」と自己紹介すると、まだ少年の域に片足を置くフェデラーは、自身を紳士のように扱う年長者の態度が面白かったらしく「僕はロジャーです」と笑いながら答えた。ロウが、選手ガイドを作るため「既婚者ですか?」「子供はいますか?」などの規定項目をたずねていくと、そのたびに彼は声を上げて笑ったという。

「プレーヤーとしてだけでなく、人としても魅力的な若者だな」

 それ以来、ロウはフェデラーの足跡を、期待と好奇の目で追い続けた。

 なおやや余談になるが、少年っぽく笑い上戸な一面が今もフェデラーの中に色濃く残っていることは、多くの選手が証言している。錦織は以前に、「フェデラーは、みなさんが思っているよりもずっとオチャメな人。僕の名前を、変なイントネーションで呼んだりしてくる」と言っていた。

 閑話休題。

 10代のフェデラーを追うなかでロウが何より強く記憶しているのは、コート上で精神的に崩壊し、勝てる試合をことごとく落としては涙を流す姿であった。2000年2月のマルセイユ大会でフェデラーは初めてツアー決勝に勝ち進むが、決勝戦ではスイスの先輩であるマーク・ロッセにファイナルセット・タイブレークの末に敗れる。この時のフェデラーは、表彰式の間中、泣き続けていたという。

「もう泣くなよ」。ロッセが慰めても、18歳は「初めての決勝だったんだ。この先僕が、また決勝に出られるのか、優勝できるのか分からないよ……」と悄然とする。

「大丈夫だよ、絶対に君は優勝できるさ」。

 当時29歳でキャリアの終盤に差し掛かっていたスイスのトップ選手には、後輩に励ましの言葉を掛ける以外に出来ることはなかった。

「彼は素晴らしい選手になれると思った。ただ、ここまで凄い選手になるとは予想できなかった」。

 後にロッセは、そう回想している。

 この決勝敗戦後も、フェデラーはフルセットの接戦や、タイブレークにもつれ込んだ試合を立て続けに落としている。4~5月のクレーコートシーズンでは、5大会連続初戦負けという泥沼にも陥った。

「なんで僕は、いつも競った試合で負けちゃうんだろう……」

モンテカルロ大会の初戦で敗れた後、フェデラーはロウにぽつりとこぼしたという。

「大丈夫さ。戦い続けていくしかないよ」

 戸惑いを覚えつつ、ありきたりの慰めの言葉を口にしたロウは、「彼はまだまだ、成長期特有の痛みに悩まされている子供なんだな」と感じていた。

後編に続く>