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米同時多発テロから18年。ニューヨークに住む人々にとって911はどんな日だったのか(前編)

安部かすみニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者
1棟目のタワーが崩壊して30分後、ニュージャージー州側から撮影された現場の様子。(写真:ロイター/アフロ)

秋晴れの美しい9月のある朝、多くの人々の命が一瞬にして奪われた。

2001年9月11日、この日のことを誰も忘れない。アメリカ・ニューヨークの世界貿易センターで2,753人が、ワシントンD.C.のペンタゴンでは184人が、ペンシルベニアでは飛行機が墜落し40人が、同時多発テロにより尊い命を落とした。

あれから今年で18年。あの時生まれた赤ちゃんが18歳になると考えると、長い年月の経過がさらに現実味を持って感じられる。

時の流れとともに記憶は風化し、話題に上ることはなくなってしまった。この時期になるとあの日の惨事が報道されるが、実際に体験した人々の生の声はほとんど聞こえてこない。

あの日のニューヨークを生きた人々にとって911とは何だったのか? 見たもの感じたものを振り返ってもらった。今一度、平和について考えるきっかけになることを願いながら。

復興した事故現場は現在グラウンドゼロと呼ばれている。(c) Kasumi Abe
復興した事故現場は現在グラウンドゼロと呼ばれている。(c) Kasumi Abe
画像制作:Yahoo! Japan
画像制作:Yahoo! Japan

ニューヨーカー、911それぞれの記憶

キャサリン・ウェインストックさん・50代女性・CW DESIGNインテリアデザイナー

あの出来事は、幸せな気持ちとの対比で、今でもよく覚えている。

私は夫と息子と3人で、マンハッタンのトライベッカ地区という、世界貿易センターから徒歩10分の高層アパートに住んでいた。2001年8月28日は息子の3歳の誕生日。私たちは、郊外(Long Island)のビーチで週末を過ごすためにセカンドハウスを所有していたので、そこに息子の友人を招待し誕生日パーティーを開いた。

子どもがそこらじゅうを走り回り、ガヤガヤと楽しく「完璧な夏の日」を過ごした。あの幸せな空気感は、今でもはっきり記憶にある。すべてが完璧すぎて、私は不思議とこのような気持ちになった。「この次は一体何が起きるのかしら?」。プリ・センチメンタルな気持ち(感傷的な気持ちの序章)とでも言おうか。

それから2週間後の9月11日。私たちはまだベッドルームにいて朝のゆっくりした時間を過ごしていた。すると、アパートのすぐ近くを飛行機が低空飛行する音が聞こえてきた。普段は聞こえないような強烈な爆音だった。飛行機が北東方面から南方面に飛んでいき、私たちのすぐそばを通過したようだ。

息子が「ダーダ(パパ)!あの飛行機すごく低いね」と訝った。夫は趣味で小型飛行機を操縦するアマチュア・パイロットだったので、私はよく思っていなかったけど息子をたびたび彼の趣味に同行させていたから、息子もあの年で飛行機のことをよく知っていた。

まさに1機目が世界貿易センターの北棟に突撃する「直前」の出来事だ。激突した音が聞こえたかどうか・・・この辺の記憶は曖昧だが、とにかく良からぬことが起こったことを知った。うちの家の窓から見えないので、南側に面した上階の友人宅に行き、テレビとインターネットの両方をチェックしながら「事故」の経過を追った。

そうするとしばらくして、2機目もビルに突っ込み、これはただの事故ではないことがわかった。窓から道路を見下ろすと、人々が逃げ惑っていた。テレビ画面からと窓から見る景色がまったく同じでとても不思議な感じがした。

キャサリンさんが当時住んでいた家は、世界貿易センター(World Trade Center=▲の場所)から徒歩10分以内の場所だった。(c) Kasumi Abe
キャサリンさんが当時住んでいた家は、世界貿易センター(World Trade Center=▲の場所)から徒歩10分以内の場所だった。(c) Kasumi Abe

現場のすぐ近所(Battery Park)に友人家族が住んでいたので、うちに避難しないかと電話をかけ(その時はまだ固定電話が繋がっていた)その日は不安な気持ちの中友人家族らと共に過ごした。

翌日も外は焼け焦げた匂いと煙で息ができないほどだった。私たちはセカンドハウスに避難し2週間ほど滞在した。避難場所があった私たちは運がよかった。その後、夫の祖国ドイツでお祝いイベントの予定が入っていたので、スーツケースを取りに自宅に戻ったが、家の周辺は焼け野原のような状態だった。

私たち家族はクリスマスまでの約3ヵ月間、避難生活ができた。あの場を離れたのは正しい判断だったと今でも思う。その後も住み続けた人や復興現場で働いた人は、慢性呼吸器疾患や癌などで次々に亡くなっている。現場(ニューヨーク市庁舎)近くに住んでいたママ友はそれは素晴らしい女性だったが、テロの数年後にひどい肺癌で苦しみながら亡くなってしまった。

グラウンドゼロに建てられた博物館「The 9/11 Memorial Museum」。  Photo: Kasumi Abe
グラウンドゼロに建てられた博物館「The 9/11 Memorial Museum」。 Photo: Kasumi Abe

実はあの時、EPA(米国環境保護局)のクリスティーナ・トッド・ウィトマン局長(Christine Todd Whitman)は、事故後の空気の安全性について「まったく問題ない」と発表していた。しかしそれは嘘で、数年前に彼女は罪の重さを感じ、謝罪した。世界貿易センターがあったのは経済の中心を担う金融街だから、混乱させたくなくて情報を捏造したのだ。

しかしそれは決して許さることではない。彼女は、事故後に亡くなった人々の死についての責任を負わなければいけないと思う。

911には、さまざまな陰謀説も渦巻いている。興味があれば、ドキュメンタリー『The New American Century』(2007年)や『Loose Change 9/11: An American Coup』(2009年)を観るとよい。人は私のことを陰謀理論家と呼ぶこともあるけど、私は陰謀説の真偽について結論づけたい訳ではない。私が伝えたいのは、正しい判断のために現象の原因について疑問を持ち、何が真実なのかを自分の頭を使って知ろうとすることが大切だということ。なぜなら世の中には、目で見た以上のもの(裏)が存在するから。

テロ後について、ほかにも興味深いことはある。事件後、混乱した土地にここぞとばかりにやって来たのは、土地開発業者だった。学校などの地域に必要な文化施設は壊され、商業施設や高層コンドミニアムが次々に建てられた。私が住んでいたトライベッカはそれまで、ゆったりした住みやすい下町だったのに、急に街の顔がごっそり変わってしまった。もちろん進化のための変化はどの街でも必要なこと。しかし変化しなくてもよいところまでごっそり変わってしまった。ひどい街になった。あの出来事は、トライベッカという私の街の「終焉」の始まりだった。

後編につづく)

2019年の主な記念式典 in NY

9月11日、世界貿易センター跡地のグラウンドゼロや、そのすぐそばで奇跡的に無傷だったセントポール教会などで、記念式典が開催される。また、日没後から翌日まで、北・南棟に見立てた2本の光のタワー「トリビュート・イン・ライト」も照らされる。

原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より
原案:安部かすみ 画像制作:Yahoo! Japan 出典:米各紙より

(Text and some photos by Kasumi Abe) 無断転載禁止

ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

米国務省外国記者組織所属のジャーナリスト。雑誌、ラジオ、テレビ、オンラインメディアを通し、米最新事情やトレンドを「現地発」で届けている。日本の出版社で雑誌編集者、有名アーティストのインタビュアー、ガイドブック編集長を経て、2002年活動拠点をN.Y.に移す。N.Y.の出版社でシニアエディターとして街ネタ、トレンド、環境・社会問題を取材。日米で計13年半の正社員編集者・記者経験を経て、2014年アメリカで独立。著書「NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ」イカロス出版。福岡県生まれ

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