人生を棒に振ってもいいくらいの気持ちがちょうどいい 禅僧が永平寺の修行で積み重ねた結論は
私たちは生まれたいように生まれたわけではなく、気がついたらそのように生まれついていただけです。いわば他人に仕立てられた、お仕着せの「自分」なのです。最初から寸法が合うはずもなく、無理をしながら「自分」をやっているのですから。 もちろん、それでも楽しく生きている人はいます。そうやって生きられる人たちはよかったね、と思えばいいだけの話です。夢や希望や「理想の自分になる」といった物語に乗れるのなら、それでなんの問題もありません。 しかし、もしそこに違和感があるのであれば、むりやりその生き方に合わせるのは、新たな苦しみを生むだけです。 ■意味のある人生の物語が降りる 「充実した毎日を送りたい」 「人生をもっと有意義に過ごしたいのです」 そうおっしゃる方たちが、「意味のある人生」を送りたいと思う気持ちはわかります。しかし、そう考えて苦しくなっているのなら、その「充実した人生を送る」「自己実現して生きる」といった物語からは、降りてもいいのです。 現代社会を見ていると、多くの人が、生きることに対して非常に力が入っています。「よりよい人生を生きなければならない」と思い込み、「人に勝たねばいけない」と焦っている。「得をしたい」「ほめられたい」という欲もある。 だから力んで、仕事に、余暇の充実にとがんばってしまう。スケジュール帳がびっしり埋まっていないと不安になってしまう。さぞ苦しいだろうから、力を抜いて「大したことのない自分」を生きればいいのにと思います。 しかし同時に、それがむずかしいのもよくわかります。人間は、力を入れるのは得意ですが、力を抜くのは非常に苦手なのです。坐禅で「肩や手足の力を抜いてください」と指導して、すぐそのとおりにできる人は、まずいません。 ただ、思い出していただきたいのですが、人はやる気に満ちて、力いっぱい生まれてきたわけではありません。もし自分で「これから生まれるぞ」と決めて積極的に生まれてきたのなら、力を入れて生きるのもわかります。でも実際、人は根本的に受け身で生まれてきているのです。