決死隊突撃の瞬間捉えた絵画に厳しい評価 “戦争画”の制作、日本画の表現に限界「技術の問題が大きい」
【流転の日本画-戦争と美術-(上)】
1940年正月、陸軍省からの依頼に日本画家の吉村忠夫は戸惑っていた。3年前に始まった日中戦争の出口は見えず、対米関係が緊張の度を高めていた時期だ。中国戦線に赴き、戦争を記録する絵を描いてほしいという頼みだった。 【画像】「突撃路(忻口鎮攻撃図)」として聖戦美術展に出品された吉村忠夫の作品 「自分には向いていない」と初めは断った。しかし、9月になって船で中国へ向かう。戦闘があった場所を訪れ、大陸の景色と悠久の歴史に感じ入りながら12月に帰国。翌年の第2回「聖戦美術展」に「突撃路(忻口鎮攻撃図)」と題した作品を発表した。銃剣をきらめかせた決死隊たち。工兵が仕掛けた爆薬が土煙を上げるのを合図に、突撃しようとしている。 <天覧に供し奉って後、国民的記念画として陸軍省に献納する>。そう意気込み、緊迫の一瞬を捉えようとした。しかし美術雑誌では厳しい評価が下る。評者は力を尽くした作品だと認めつつ、従来の技法にとどまり、迫力や実感に欠けるというのだった。 吉村の足取りは、96年に福岡県立美術館であった展覧会「吉村忠夫と松岡映丘一門」の図録に詳しい。 1898年、福岡県黒崎町(北九州市八幡西区)の生まれ。東京美術学校で松岡映丘(1881~1938)に学んだ。歴史と古美術への理解が深く、伝統的な大和絵を志向。平安時代の王朝風俗などを華麗な筆致で描いた。 長女の資子(もとこ)(85)は「描くのは昼だけ。夜、電灯の明かりでは描かなかった」と回想する。豊かな色彩を追求したからだろう。吉村にとって殺伐とした戦争は気乗りのしない画題だったのかもしれない。資子は父の言葉を覚えている。「平和になったら、ゆっくり中国に行きたいな」 □ □ 戦争画が盛んに描かれだしたのは日中戦争が始まってから。展覧会も開催され、国民の戦意高揚に貢献。脚光を浴びた画家として藤田嗣治や中村研一らが知られる。 ただ、その多くは西洋由来の技法で制作した油彩画(洋画)で、伝統的な日本画は少なかった。東京国立近代美術館には、実際にあった陸海空の戦闘や司令官の会見場面を描く戦争画153点がある。そのうち日本画は2割もない。 その理由について新潟県立近代美術館学芸員の長嶋圭哉は「技術の問題が大きい」と指摘する。自在な混色と塗り重ねができる油彩は、立体的で重厚な写実表現が得意。粉の絵の具を膠(にかわ)で溶く日本画は平面的にならざるを得ず、多数の人物や金属の兵器が登場する戦争画には不向きだった。 そのため日本画家の多くは、歴史を踏まえた武士や合戦の絵によって時代の要請に応じるようになる。一見それらは戦争画には見えない。しかし、勇ましい武将や主君に忠誠を誓う家臣の姿は人々に好まれるとともに、国が掲げる忠君愛国の精神を表す絶好のテーマでもあり、戦争画の性格を持っていたといえる。長嶋は「購買層との関係を保ちつつ、戦争に意識があるとアピールできる一挙両得の画題だった」と読み解く。 古美術品である合戦の絵巻も再評価された。中でもモンゴル侵攻(元寇(げんこう))を描いた「蒙古襲来絵詞」は、戦争画の古典と位置づけられた。吉村の師の松岡は「絵詞」の制作時期が実際の戦争から遠くないことや記録性が高いことに着目し<将(まさ)に時局画である>と評した。元寇という事件自体、外国の侵略を撃退した歴史として盛んに顕彰された。 □ □ 歴史を利用して今を正当化する。その論理は先が見えない時代ほど説得力を持つ。さかのぼれば明治政府は、天皇政権の正統性を強調するため、初代の神武天皇が異民族を平定する日本建国の神話に着目した。西暦に対する独自の紀年法として、神武即位を元年とする「皇紀」も採用した。 近現代史研究者で「『戦前』の正体 愛国と神話の日本近現代史」の著書がある辻田真佐憲は「曖昧な神話の時代はいかようにも利用しやすい。神武天皇は兵を率いる武人のイメージも持っていたので、徴兵制を敷く上でも都合が良かった」と指摘する。 ナショナリズムが盛り上がった1940年は皇紀2600年。神話熱も高まり、国を挙げた祝賀行事が続々と開催された。前年に制作された「肇国創業(ちょうこくそうぎょう)絵巻」もその一環だ。吉村のほか、横山大観、安田靫彦(ゆきひこ)、前田青邨(せいそん)と、そうそうたる日本画家が神武天皇の物語を含む神話を11の場面に分けて描く絵巻は、遂行中の戦争を支持するプロパガンダの機能も十分に備えた。 その後、吉村は陸軍美術協会にも加わるなど国策へ協力する道をたどった。そして、軍の依頼で中国戦線に向かい、日本画には困難とされる現代戦の表現に挑み、限界も示した。 吉村は1952年2月、脳溢血(いっけつ)で死去した。53歳。「突撃路」は戦後に所在が不明になっている。 (敬称略) (諏訪部真) × × 戦争の時代と向き合いながら表現を続けた日本画家たちがいた。戦後80年。忘れ去られ、扱いや評価が定まらない作品を追い、戦争と美術、個人と国家の関係を考える。
戦争画
日中戦争から太平洋戦争終結までに制作された、戦争を描いた絵を指すことが多い。東京国立近代美術館の153点は米国に接収され、1970年に「無期限貸与」の形で返還された。軍が制作を委嘱した「作戦記録画」を多く含み、まとまった戦争画コレクションを形成するが、他にも軍の依頼によらない絵や戦闘を描かない戦争関連の絵もある。