冬季閉鎖前の閑散とした「黒部ダム」、人を近づけなかった厳しき山の片鱗を垣間見た
そんなわけで電気バスに乗り込み、いざトンネルの中へ。
しかしよく考えれば当然なのだが、トンネルに入ってしまうと風景に大きな変化は起こらない。
見どころといえば、電光看板で示され車内放送でも知らされる破砕帯なのだが、コンクリートで打たれたトンネルの壁を透かして破砕帯の地層が見えるわけでもない。
僕はありったけの想像力を動員し、ここで泥にまみれ、水浸しになりながら悪戦苦闘する三船敏郎や石原裕次郎、いや、当時の本物の作業員たちの幻影を見ようとした。 だが電気バスは安全運転でスイスイと、破砕帯や、トンネル“貫通点”の看板横をあっさり通過。
扇沢駅から黒部ダム駅までは約16分の道のりだったが、単調であるがゆえ、より長く感じたのだった。
■高度経済成長期の日本を支えた巨大発電施設の今とこれから 黒部ダム駅に到着した後は、220段の地中階段を登り展望台へ。
そこからさらに、コンクリート壁にへばりつくように設置された、スリル満点の見学路を歩きながら眺望を満喫する。周囲に迫る山々の存在感に圧倒され、「天険」とも呼ばれた黒部の険しさを実感するのだった。
黒部ダムは、発電のみを目的とするダムである。関西電力の事業として1956年に着手され、難工事の末1963年に完成。堤高(ダムの高さ)は、日本最大の186メートルを誇る。
黒部ダムと同様の重力式コンクリートダムは、日本では1900年(明治33年)に神戸市水道局が造った、上水道用の布引五本松ダム(堤高33.3メートル)が最古のもの。 その後は堤高50メートルを超えるダムが続々と建設されるようになり、昭和に入ると折からの機械化工法の普及によって、ダムは80メートルを超え100メートルを超え、どんどん巨大化していった。 しかし戦争の激化により、当時あった大ダム建設の計画はほとんどが中止。そして戦後の急速な復興期に、日本は深刻な電力不足に陥るのである。 当時の関西地方は慢性的な計画停電が続き、電力不足による復興の遅れも発生していた。停電による死亡事故も頻発して社会問題となると、関西電力は決定的な打開策を打ち出す。 過酷な自然に阻まれ、大正時代から何度も失敗を繰り返し頓挫していた、黒部ダム建設計画の復活である。 総工費は513億円。 現在の感覚では少ないとも感じるが、当時のレートでは関西電力の資本金の5倍となる巨費だったそう。まさに当時の日本らしい力強き話であり、頭の中には「風の中のす~ばる~ 砂の中のぎ~んが~」というBGMが巡る。 黒部ダムの着工前年である1955年、日本の全電力のうち78.7%が水力発電によって賄われていたというから、黒部ダムはまさに国運を賭けた大事業だった。だが完成前年である1962年になると、水力発電の割合は46.1%まで減っている。経済成長によって獲得した外貨で安価な化石燃料が確保できるようになり、日本の発電は火力へと軸足を移しつつあったのだ。 そして2022年には、火力の70%以上に対し、水力発電は全電力の7.6%にまで落ち込んでいる。5.6%の原子力や3.7%のバイオマス発電よりは多いが、9.2%の太陽光発電よりも頼られなくなっているのである。 この巨大インフラ・黒部ダムは、時代の端境期に登場した発電モンスターであり、そう遠くない将来には役割を終え、「産業遺産」と呼ばれる過去の存在になっていくのかもしれないと思うと、一抹の切なさを感じるのだった。