【六田知弘の古仏巡礼】切り立った崖に13メートルもの 線刻の弥勒磨崖仏。800年以上の昔、危険を冒すほどに人々を駆り立てた信仰心に思いを致す(大野寺石仏、国史跡)
六田 知弘 / 村松 哲文
奈良・大野寺の川向こうの岩壁に彫り込まれた巨大な弥勒菩薩像。鎌倉時代に誕生した日本最大の磨崖仏で、室生の山里を訪れる人々を今も優しく見守り続ける。
風雪に耐えた穏やかな表情が、慈愛に満ちている。 真言宗室生寺派の古刹・大野寺(奈良県宇陀市)の境内から宇陀川の清流を挟んで屹立(きつりつ)する岩壁には、巨大な弥勒菩薩の摩崖仏がたたずむ。 木や竹で組んだ足場に登って岩肌に13メートルを超える光背を彫りくぼめ、その内側を平らにして像高11.5メートルの弥勒菩薩立像を線刻している。東大寺の大仏(15メートル)には及ばないが、摩崖仏としては国内最大とされる。肩に衣をまとい、頭を斜め右に傾ける。切れ長のまなざしは衆生を優しく見守るかのようだ。左右の足をそれぞれ蓮華(れんげ)座に乗せており、これを「踏割蓮華座(ふみわりれんげざ)」という。 伝承によれば、大野寺は飛鳥時代に修験道の祖・役小角(えんのおづの)が創建し、平安時代に弘法大師・空海が伽藍(がらん)を建てて、「慈尊院弥勒寺」と称したという。 創建者が室生寺と同じとされ、空海とも縁が深いことから、古くから両寺は密接な関係にあったと思われる。室生寺から北西3.5キロの地に位置し、その参拝に向かう途中で立ち寄る人が多いことから、大野寺は「室生寺の西の大門」とも呼ばれている。 弥勒磨崖仏は鎌倉初期の1207(承元元)年、興福寺の雅縁(がえん)の発願によって造立。京都・笠置寺(かさぎでら)の本尊で、飛鳥時代に彫られた弥勒像を模刻したとされる。制作者は慶派の仏師・宗慶で、東大寺復興の際に来日した宋(現代の中国)の石工たちも携わった。1209(承元3)年3月7日の開眼供養には、後鳥羽上皇も行幸している。 日本の石仏は、平安時代までは岩肌を彫った磨崖仏が多かったが、鎌倉時代に入ると切り出した石を彫刻する丸彫りが主流となった。その中で本像は鎌倉時代の摩崖仏、しかも線刻という貴重な作例だ。優美な曲線には、当時伝来したばかりの、しなやかな動きを写実的に表現する宋の仏像様式の影響もうかがえる。洗練された磨崖仏の傑作と言えるだろう。 人里離れた山あいにこつぜんと現れた巨大な石仏。当時の人々はどんな思いで仰ぎ見たであろうか。 <【関連記事】リンク先で、六田知弘撮影の美しき仏像彫刻をご覧いただけます>