貧しき船乗りの青年が22個の爆弾で9人を殺害…「血の金曜日事件」はなぜ起きたのか
動機「攻撃は最大の防御」という論理
私は「トラブルズ」の話を、1969年の、ベルファストにあるフォールズと呼ばれるカトリック教徒地区から始めようと思う。 いつもは静かなボンベイ・ストリートの、8月のある午後だった。壁のように続く赤レンガ造りの狭小なテラスハウスに沿って、興奮したプロテスタントの暴徒が示威行進し、カトリックの労働者の家に火炎ビンを投げ込んでいた。 ブレンダン・ヒューズは屋根の上に立ち、手の付けられないプロテスタントの「ロイヤリスト(イギリス帰属支持者)」が眼下の通りに火を付けるのを見ていた。浅黒い肌に、濃い黒髪と口髭が特徴的な若き日のヒューズは、イギリス商船の仕事の短い休暇中だった。船員は、フォールズに住む彼のようなカトリックの貧しい若者が就く典型的な仕事だった。 彼と一緒に屋根にいた友人は、これも多くのカトリックの若者が参加するアイルランド共和国軍(IRA)の一員だった。IRAは、第一次世界大戦に起源を持つカトリックの準軍事的、政治的組織だ。IRAはその数年前に平和路線へと方針を変えていた。 その夜、ヒューズを含む100人ほどの怒りに駆られた男たちが、報復のためにシャンキルを示威行進しようとしたが、IRAはそれも止めた。武力衝突は犠牲が大きいからだ。フォールズの、住民の大部分がプロテスタントのブロックで育ったヒューズは、子どもの頃からロイヤリストの敵意を肌で感じていた。 「マッキシック夫人という90 代の老婆がいたんだ。私が彼女の家の前を通るたびに、つばを吐きかけられた。毎週日曜日には、『今朝は法王のおしっこで身を清めたのかい?』と大声でからかわれた」と彼は回想する。ほかの隣人たちは、ロイヤリストの祭日を祝うために、通りで唯一のカトリック教徒であるヒューズの家の玄関先に飾りを置いた。警察からの嫌がらせも絶えることがなかった。 とはいえ、ボンベイ・ストリートでの放火のような、容赦のない暴力的攻撃は初めてだった。ロイヤリストの暴徒や準軍事的なグループは、1969年を通じてカトリック教徒への攻撃を激化させた。 あるロイヤリストのリーダーが何十年かのちに書いたところによると、彼らの動機は単純だった。「攻撃は最大の防御である」ということだ。北アイルランドでは、長い間、プロテスタントが多数派だった。しかし、カトリック教徒は多くの子どもを産んだので、人口が増えていった。その上、ロイヤリストの視点から見ると、カトリック教徒は傲慢になって対等の扱いを求め、あろうことか普通選挙権まで要求するようになったのだ。 「プロテスタントの人民のためのプロテスタントの国」という古くからの北アイルランドのモットーを信じる者は心中穏やかではなかった。