貧しき船乗りの青年が22個の爆弾で9人を殺害…「血の金曜日事件」はなぜ起きたのか
「威嚇と弾圧」は暴動を増長させる
彼らがIRAの真の目的と考えていたのは、北アイルランドをイギリスから分離し、カトリックのアイルランド共和国と統合することだった。多くのプロテスタントは、それを自分たちの存亡に関わる脅威と見なしていた。しかし、すべてのカトリック教徒がIRAを支持し、アイルランドとの統合を望んでいたわけではなかった。 ところが、ロイヤリストは、差別や、挑発的な示威行進、プロテスタント至上主義の正当化、ときには暴力的な攻撃などを続けた。その結果、共和主義でも反体制的でもなかったカトリック教徒が、次第にIRAの運動への共感を募らせていったのである。 歴史上、この罠に落ちた帝国や、植民地開拓者、多数派民族は数知れない。1969年に暴力が激化すると、イギリスは平和を維持するために軍隊を派遣した。当初、イギリス軍は、カトリック教徒とプロテスタントの示威行進や暴徒が衝突しないように分けることを任務としていた。だが、すぐに、夜間外出禁止令や、検問、家宅捜索、大規模な逮捕、勾留などの圧力が、もっぱら自分たちに向けられていることにカトリック教徒は気付いた。 そうした状況の中、IRAと袂を分かったグループが、新しく、さらに過激な組織を結成する。「IRA暫定派」、略称「プロボ」(プロビジョナルIRAの略)である。プロボは、オフィシャルIRA(従来のIRA)の平和路線を拒絶し、警察や軍隊への爆弾闘争を開始した。 イギリスは新たに生まれた暴動を鎮圧するために武力で対応したが、それは裏目に出た。あるプロボは、新しいメンバーを一番増やしてくれたのは警察と軍隊だったと語った。 「時々IRAは間違った戦術を考え出して実行したが、そのたびにイギリス軍が登場し、それを覆い隠すようなもっとひどいことをやってくれた」と彼は語った。「われわれは、イギリスは友人ではないという認識を広げていった。……そして、イギリスはことあるごとにわれわれの主張を取り込み、プロパガンダで言ったことをすべて実現してくれた」 威嚇と弾圧は、あらゆる国家が使う一般的な手法だ。それがうまくいくときもある。例えば、第二次世界大戦中や戦後に実施された夜間外出禁止令や、逮捕、勾留などによって、共和主義者の暴力事件は抑えられた。しかし、こうした戦術は成功と同じくらい失敗に結び付いていた。北アイルランドとイギリスの政府が歴史を少し遡って第一次世界大戦前後に注目すれば、1916年の弾圧によって元々のIRAが台頭し、内戦がアイルランド全土に広がったことを思い出すだろう。