メキシコの世界最古団体で単身20年にわたり活躍する日本人プロレスラー「OKUMURA」インタビュー
日本語で叫ぶと観客がブーイングで反応した。メキシコのファンは日本語をわからないからこそ、何やら不気味な奥村に敵愾(てきがい)心を燃やした。 試合ではジャーマンスープレックスやドラゴンスープレックスなどブリッジを使った技を意図的に使った。目の肥えた本場の観客は「日本人=スープレックス系の使い手」と認識しており、奥村が繰り出すと会場は大いに沸いた。 「最初の数年間は毎日必死で後ろを振り返る余裕はなかった。『日本には絶対に帰らない』と思って日本のニュースは見ずSNSもやらなかった。『メキシコで生き残っていくんだ。命をかけてやろう』と」 奥村はCMLLで独自の色を徐々に浸透させつつ、日本から武者修行や遠征で来た田口隆祐や棚橋弘至、中邑真輔、後藤洋央紀らとタッグを組み、存在感を高めていく。 ■日本とメキシコの架け橋になろう だが、年数を重ねるうちにスタイルを変えざるをえなくなった。激闘を重ねる中で首を骨折し、スープレックス系ができなくなったからだ。 「08年の遠征中に鎖骨を骨折してプレートとネジを7本入れたけど、金属が合わずに再手術に。その後に首(頸椎)を骨折したときは一歩間違ったら死んでいたかもしれない。虫垂炎を我慢していたら化膿して破裂しそうになったこともあります。 右膝の靱帯は今も切れたままで、両肩の骨も折った。目の焦点を合わせる手術は3回。ケガの履歴を話せばレコードですよ(笑)」 手術やリハビリのたび、何ヵ月も欠場を強いられた。そのたびに治療費を払い、サポートしてくれたのがCMLLだった。レスラー間の競争は極めて熾烈だが、リングによりいいコンディションで上がれるように後押ししてくれる。外国人選手の奥村も決して例外ではなかった。 「僕はCMLLひと筋でやってきて、会社にその姿を見てもらっていたんだなと」 平凡なレスラーの自分を受け入れ、ずっと面倒を見てくれているCMLLに貢献したい。奥村が感謝の念を強めた09年、新日本プロレスの菅林直樹会長(当時社長)が提携を結ぶためにメキシコを訪れた。