【昭和の映画史】陸軍省後援で製作された『戦ふ兵隊』 治安維持法違反で逮捕された監督の生き様
■戦意高揚を煽るためのドキュメンタリー映画製作 亀井文夫監督の『戦ふ兵隊』は、日中戦争2年目の昭和14年(1939年)に製作された。戦前ドキュメンタリーの最高峰として語り伝えられながら、長く誰も見ることのできない映画だった。ネガが処分されてしまったからである。 しかし、昭和50年(1975年)にポジフィルムが発見され、各地で上映会が開かれて、多くの人の目に触れることになった。DVD化もされている。ちなみに音楽担当は古関裕而である。甲子園のテーマ音楽や東京五輪のファンファーレを作曲した、昭和の大作曲家だ。 この映画は、陸軍省が戦意高揚を狙って企画したものである。現地で戦う兵隊の姿を見せて、銃後の国民を鼓舞しようとした。亀井が選ばれたのは、その手腕が高く評価されていたからである。 亀井文夫は明治41年(1908年)、福島県の南相馬郡(現在の南相馬市)で生まれた。早稲田中学から文化学院大学部に進み、中退して美術を学ぶため昭和4年(1929年)にソ連に渡った。文化学院は大正10年(1921年)に開学した、特色ある専修学校である。 与謝野鉄幹・晶子夫妻や西村伊作などによって設立され、「自由で独創的な学校」という、大正デモクラシーの高い理想を掲げて運営されてきた。有島武郎や竹久夢二、山田耕作や芥川龍之介、谷崎潤一郎や三島由紀夫、吉野作造、川端康成、山田洋次、井上ひさし、遠藤周作など、多くの錚々たる文化人が教壇に立った。 卒業生からも多彩な人材を輩出している。日本における服飾デザインの草分けである田中千代、ピアニストの井口愛子、小説家の大沢在昌、絵本作家のきたやまようこ、詩人の山口洋子、児童文学者の久米穣、アニメーション作家の久里洋二、脚本家の水木洋子。 さらに、日本におけるバレリーナの草分けである谷桃子、デザイナーの鳥居ユキや菊池武雄、指揮者の石丸寛、セツモードセミナーを創設した長岡節、彫刻家で磯崎新の夫人である宮脇愛子、人形作家の荒井良、テーブルコーディネーターのクニエダヤスエなど、枚挙にいとまがない。 しかし、21世紀に入ってITとグローバルビジネスの時代になると、大学ではないこともあって経営が難しくなり、平成30年(2018年)、97年の歴史を閉じた。お茶の水の一等地にあった土地は放送局が買い受けたが、アーチ型の美しい入り口部分が保存されている。 亀井がソ連に行ったのは、当時、ソ連が表現の分野で最前線にいたからである。ソ連崩壊時の印象から、ソ連と言えば何でも遅れているような印象がある。しかし当時、ソ連はロシア・アヴァンギャルドあるいはソビエト構成主義と呼ばれる、最先端の表現をしていた。 社会主義を宣伝するために大胆な手法を生み出し、それを国が推奨していたのだ。それを学びに行ったこと自体、亀井の先進性がうかがえる。ソ連で亀井は映画を観て感動し、監督を志してレニングラード映画製作専門学校の聴講生になる。 当時、ソ連ではセルゲイ・エイゼンシュテインが活躍していた。今日に至るまで世界的な映画監督としての名声を誇っているエイゼンシュテインは、亀井がソ連に渡る3年前に『戦艦ポチョムキン』を製作していた。この映画はモンタージュを技法として確立し、今も教科書的な存在であり続けている。 昭和8年(1933年)に帰国すると、東宝の前身である写真化学研究所(PCL)に入社。2年後に『姿なき姿』でデビューし、昭和13年(1938年)には第二次上海事変後の様子を伝えた『上海 支那事変後方記録』を製作、手腕を高く評価された。 亀井の、ソ連仕込みのモンタージュ技術は素晴らしかった。この映画は現地には足を運ばず、カメラマンが撮った膨大なフィルムを亀井の視点から編集したもので、これが出色なのである。 この映画が見せるのは戦闘後の街の様子だ。欧米列強の租界があった国際都市・上海に瓦礫が積み上がり、市内を堂々と行進する日本軍を見る中国人は無表情である。戦闘の様子を語る日本兵の言葉にも無理があり、子どもたちの合唱もやらされ感一杯だ。犬がそっぽを向く場面も意味深長である。 製作を依頼した陸軍の意図は戦意高揚だった。しかし見る人が見れば、必ずしもうまくいっていない現状が透けて見える内容だった。それでも一応「やらせ」によって、日本軍を歓迎しているような映像があったためか、問題にはならなかった。検閲にあたった軍人たちが、芸術表現にうとかったこともある。 亀井の力量に対する評価は高く、東宝は陸軍省報道部の後援を得て『戦ふ兵隊』の製作を企画した。監督に抜擢された亀井は撮影のため、カメラマンや録音技師らと共に武漢作戦に5ヶ月間従軍している。 亀井も反戦映画を作るつもりはなかった。ただ、巷にあふれていた単純な戦意高揚映画にならないよう「中国の大地と、そこに生きる農民や馬、草」を丁寧に描くよう心がけたという。根っからの表現者だったのだろう。 映画は冒頭、天に祈る農民の姿から始まる。意表を突く始まり方だ。その後も、日本軍に破壊される家を悲しそうに見つめる中国人、首うなだれて軍楽隊の演奏を聴く日本兵たち、閲兵式で掲げられるボロボロの軍旗などが続く。 中でも、疲労か病を得てか馬が崩れ落ちるように斃れる姿は、戦争の悲劇を象徴する名場面で強い印象を残す。この映画は東宝社内で繰り返し試写会が行われ、高い芸術性と表現力が好評を博していた。 しかし、これを観た検閲官は「これではまるで『疲れた兵隊』ではないか!」と怒り、上映不許可となってしまったのである。実際、これはどう観ても戦意高揚映画ではない。残酷な場面は全くないが、戦場で様々な悲劇が起きていることを示唆し、日本兵の苦境を映し出していた。 亀井は昭和16年(1941年)、太平洋戦争開戦の年、この映画を製作したことも一因となって映画人としてただ一人、治安維持法違反で逮捕され、監督免許剥奪となる。 敗戦翌年の昭和21年(1946年)には、占領下で『日本の悲劇』を製作したが、今度はGHQ(連合国軍総司令部)の検閲で公開不許可となった。しかし、その後も亀井は、昭和62年(1987年)に78歳で鬼籍に入るまで、旺盛な活動を続けたのである。
川西玲子