日本にも関係の深いインド文化の大逆転か イギリス初の非白人首相が誕生
むき出しの貧困、哲学を語る貧困
インド論では堀田善衛の『インドで考えたこと』(岩波新書、1957年刊)が有名だが、僕がこの国に興味をもったのは、中学生のときに読んだ小田実の『何でも見てやろう』(河出書房新社、1961年刊)という紀行文によってであった。小田は、アメリカとヨーロッパをまわってからインドを旅し、街路を住まいとする不可触賎民(アンタッチャブル)の実態に接し「抽象的、カッコつきの『貧困』ではなく」「むき出しの事実としての貧困」と表現している。しかしその裏には、ある種畏敬の念が感じられ、人間の価値観は近代文明による経済発展だけでは計れない、ということを示唆しているようにも思えた。 藤原新也の『インド放浪』(朝日新聞社、1972年刊)は、死というものの意味を改めて考えさせられる、僕の愛読書であった。椎名誠や沢木耕太郎も印象深いインド紀行を残している。またビートルズや横尾忠則など、インドを訪れて衝撃を受け、作風が変わった芸術家も多い。安藤忠雄も、ヨーロッパの建築を見てまわったあとインドを訪れて、あの強固な建築観を練り上げたのである。若いときにインドを訪れた僕の友人は「物乞いが哲学を語る国だ」と表現した。そこにあるのは「むき出しの貧困」であると同時に「哲学を語る貧困」でもあるのだ。 僕らの世代にとってインドは「貧困」の代名詞であると同時に「非文明の価値」の代名詞でもあった。インド文化は、日本だけではなく世界の先進国の反体制文化に、何らかのエートス(精神的価値観)を発信しつづけていたのである。
仏教のふるさとから西欧との中継地へ
日本との文化的関係を遠くさかのぼれば、もちろん仏教だ。 6~8世紀の、日本が国家としての体裁を整える時期に、最大の影響を与えたのは漢字という文字文明を伝えた中国であったが、その文字が教えた思想は、儒教や道教といった中国古来のものではなく、遠くインドから伝えられた仏教であった。中でも日本文化に大きな影響を与えたのは、現在のパキスタンの位置にあってペルシャにも近いガンダーラに誕生した仏像文化である。その背景には、アレクサンドロスの東征によるヘレニズム(ギリシャ文化の東方化)が残した古代ギリシャの彫像文化がある。衣服のヒダを彫刻で表現することなど、日本の仏像文化はギリシャ彫像文化とシルクロードをつうじてつながっているのだ。 もちろん、当時の中国の唐王朝が仏教ブームだったことが大きいのだが、日本国が仏教化したのは、それが単に中国風の先進文化だったからではなく、仏教という文化が、ギリシャやペルシャやインドの文化を総合した国際文化だったからではないか。シルクロードは「絹の道」であると同時に「仏の道」でもあり、ユーラシアの西と東を結ぶ「国際文化の道」でもあったのだ。 しかし中世になると、中央アジアを、イスラム系、モンゴル系、そしてティムールなど、遊牧文化を基本とする帝国が支配することとなり、日本とインドの関係は疎遠なものとなる。 インドが再び日本人の意識にのぼるのは、織田信長の時代、外洋航路の時代である。インド西海岸のゴアをポルトガルが支配し、イエズス会が拠点ともしたからで、ザビエルが日本に来たのも、信長が宣教師を庇護して世界の文物情報をえたのも、インドのゴアという都市があったからである。シルクロードに代わって「海の道」が拓けたからである。 世界の海の覇権がスペイン、ポルトガルからオランダ、イギリスに移ってからは、両国とも東インド会社をつくって東洋への足がかりとした。江戸時代の日本とインドとの関係はオランダをつうじてであった。やがてインドはイギリスの支配下に入り、幕末から明治にかけてイギリスとの関係を強めた日本は、そのイギリスをつうじて、インドを紅茶や香辛料(カレー)や綿花や綿織物などの産地と位置づけるのである。 特筆すべきことは、日本が中国大陸に進出する時期、英国からの独立機運が高まりはじめていたインドは、欧米列強を敵にした日本に親和的であったことだ。「敵の敵は味方」という論理であろうか。大東亜の解放を唱える日本は、インドの独立運動の指導者チャンドラ・ボースを支援した。敗戦後の東京裁判で、唯一、日本の無罪を主張したのがインドのパール判事であった。 その後、日本は経済発展をつづけたが、独立はしたものの発展に取り残されたインドは、先に述べた「むき出しの貧困」「哲学を語る貧困」におちいる。僕はこれまでに書いてきた「ユーラシアの帯」における位置関係からも、インドを「ユーラシア文明圏の底辺」と感じ、その近代文明から取り残されたような文化に不思議な奥深さを感じてきた。