「人の目を気にしてやめるのはもったいない」――北海道が生んだエンターテイナー・大泉 洋の50年
大学時代の運命を変えた出会い
「今のままではいられない」と思い直し、演劇研究会の門をたたいた。ここにTEAM NACSを共に結成する森崎博之、安田顕、戸次重幸、音尾琢真がそろっていたことが、運命の分かれ道となる。 「年下の先輩から『飲め、大泉』とか言われながら、飲み系のサークルで過ごすのもつらいわと思ったんですね。人を笑わせるなら落語研究会と思ったけど、なかったから演劇研究会に」 初めて舞台に立った瞬間から笑いが巻き起こった。 「髪が長くて見た目も相当に強力だったから、出ただけで笑わせてしまった。150人ぐらいのお客さんがブワッと笑う。自分でも、ああ、やっぱり俺は面白いんだなと思いました(笑)」 この初舞台を、鈴井貴之の周囲の人が見ていた。当時、鈴井が「CREATIVE OFFICE CUE」(現在も大泉が所属する北海道の芸能事務所)を立ち上げて、しばらく経った頃だった。「面白い子いない?」と聞いた鈴井に、大泉が紹介され、あれよという間にテレビ出演。大学3年生の時、『水曜どうでしょう』がスタートする。鈴井と大泉の旅をディレクターの藤村忠寿と嬉野雅道がひたすら撮るこの番組は、やがて全国的な人気を博す。
「ある時、札幌の商業施設でHTBのイベントがあって。そしたら『水曜どうでしょう』目当てのお客さんで超満員。その観客数が『ドリカム以来です』って」 大学4年生の頃には会社員の初任給くらいの収入を得ていた。両親の勧めで教員免許も取得していたが、就職の道は選ばなかった。 「その頃、拓銀(北海道拓殖銀行)という北海道で一番大きな銀行が破綻して。まぁ就職というものに魅力がない時代だったんですよね。終身雇用も崩れ始めた。町で『大泉 洋だ』と指さされることが増えて、もうどこかの会社に履歴書を出すのも恥ずかしい。26歳くらいの時、これで食っていくしかないと腹をくくりました」
不安に駆られた30代、全国進出で決めた“条件”は
この頃から、バラエティー番組『PAPAPAPA PUFFY』(テレビ朝日)の準レギュラーになったり、アニメ映画『千と千尋の神隠し』『茄子 アンダルシアの夏』に声の出演をしたりと、活動の場が全国区に少しずつ広がっていく。 「30歳になったあたりで人生について考え始めて、不安に駆られたんです。北海道の人たちは、僕が北海道でがんばってるから僕の番組を見てくれるわけじゃない。魅力がなくなったら絶対食っていけなくなるぞ、と。果たしてここで同じ仕事をしているだけで、その魅力を維持できるんだろうか。若い頃は、座右の銘が『人生半身浴』だったんです。現状維持でいいと。でも、なんの負荷もかけないで生きてるやつが現状維持できるほど甘い世界ではないんじゃないかと」 「このままでは頭打ちだから次のステップへ」と事務所も考えていた。 「やっぱり北海道って、どんなにがんばっても認めてもらえなかったりしたんですよね。『水曜どうでしょう』があって今がある、というところから抜け出せない。事務所にしてみたら、もう一回り大きくならないと、(全国放送の)テレビ局と対等に話せない」