【能登地震から1年】土砂が崩れて、道が分断。身動きが取れなくなった母。3人の娘たちと夫と、離れて過ごした震災の夜
家族5人が3か所でバラバラに。ダンボールをちぎって分け合いながら寒さをしのいだ震災の夜
2024年、元日。東京の大学から帰省した長女を迎えた朋子さん夫婦は、久々の家族団らんを味わっていました。 おせち料理を囲んで新年を祝った昼食後、夫・誠治さんは一人でつかの間の外出。一方、朋子さんは「買い物に行きたい」という長女の希望に応え、3人の姉妹とともに車で25分程の距離にある穴水方面に出発します。 「お店に到着して3人の娘を下ろした後、私は年賀状を投函しに車で移動したんです」。 当時、長女は大学1年、次女は高校2年。小学1年生の三女のことも2人に安心して任せることができたという朋子さん。 「いただいた年賀状に対するお返しだったので、早く届けたくて。投函したハガキを当日中に回収してくれるところがいいな、と何か所か巡ってようやく見つけた都合のいいポストに投函し、車に戻ったまさにその瞬間。ものすごい揺れに襲われました」。 その瞬間、「子どもたちのもとに早く戻らないと」という考えがよぎったといいます。ところが――。 「振り返ったら、いま通ったばかりの道が土砂でふさがってしまったんです。あたりには土の匂いが広がっていました。今まさに崩れた、その現実を思い知らされるような……そんな強い、圧倒的な匂いでした」。 娘たちのいる店までは、車でたった5分ほど。何とか戻れないかと周りの人に尋ねてみるも、答えは「これが唯一の道だ」という無情なものでした。 「人目もはばからず泣いていた私に、見知らぬ周りの方が『大丈夫、大丈夫』と肩をさすってくれたんです。あの時の励ましで、少し冷静さを取り戻すことができました」。 そんな中、かろうじて電話が通じ、3人の娘の無事が確認できた朋子さん。 「一旦は安心したものの、娘たちのいた店は天井が落ち、ガラスの破片だらけでそこにはいられない状態だといいます。すると店で周りにいた方が、娘たちも一緒に車に乗せて消防署に避難させてくれるというので、お言葉に甘えてお任せしました。 同時に、『ママはそこに行けないから、今日は別々に過ごそうね』と声をかけました。特にまだ小さい三女のことが心配でしたが――2人の姉が三女の傍にいてくれることは私にとっても心強かったです」。 一方、夫の誠治さんは外出先から踵を返し、手塩にかけて育てている椎茸の栽培ハウスに駆けつけたといいます。すると目の前に広がったのは、傾いたパイプ棚と、そこから地面へと崩れ落ちた無数の菌床ブロックたち――。 大きな動揺こそあれど今すぐできることはないと判断した誠治さんは、朋子さんと娘たちの安否を確認するため穴水方面へとバイクを走らせ始めていました。 「娘たちにはすぐに電話がつながったのに、夫がいる能登町へは電話がまったくつながらない。その状況の差に、余計心配が募りました。ようやく電話が通じたのは、夫のバイクが能登町と穴水の間にある能登空港の付近に差し掛かった頃。距離が近づいたのがよかったのかもしれませんね」。 顔は見えずとも、何とかお互いの無事を伝え合うことができた朋子さん一家。家族5人は、3か所に分かれて元日の夜を迎えます。 「夫は地元・柳田の避難所、娘たちは穴水の消防署、私は穴水中学校に身を寄せました。 中学校には、200~300人くらい避難していたでしょうか……。その人数に対して、ストーブは3つだけ。しかもあの夜は、とても冷え込んだんです。周りには自宅から布団や毛布を持参して避難している人も多かったのですが、私の手元には車にあったひざ掛け1枚。近くにあったダンボールをちぎって分け合いながら何とか暖を取ろうとしましたが、結局、寒さで一睡もできませんでしたね」。