【能登地震から1年】土砂が崩れて、道が分断。身動きが取れなくなった母。3人の娘たちと夫と、離れて過ごした震災の夜
様々な価値観が多様化する昨今、「家族像」もそれぞれに唯一の在り方が描かれるようになりつつあります。この「家族のカタチ」は、私たちの周りにある一番小さな社会「家族」を見つめ直すインタビューシリーズ。それぞれの家族の幸せの形やハードル、紡いできたストーリーを見つめることは、あなた自身の生き方や家族像の再発見にもつながることでしょう。 【画像ギャラリー】昨年の能登地震の様子 2024年の元日に発生した能登半島地震から1年を迎えた本日ご紹介するのは、石川県能登町に暮らす上野朋子さんです。 金沢市出身の朋子さんは、結婚後、ご主人が実家を継ぐことになったのを機に、能登半島の能登町・柳田地区へ。現在は、大学生・高校生・小学生の3人の姉妹を育てながら、家業の椎茸作りに精力的に携わっています。 震災では、先代から守ってきた8棟の椎茸栽培用のハウスにも大きな被害が。復興の道半ばだという朋子さんたちにとって、震災は『1年前の過去』ではありません。あの日から地続きの今、長い道のりの途中にありながら、明るさと前向きさを絶やさない朋子さん。この1年をどう過ごしてきたのか?困難に直面したからこそ感じる「家族のカタチ」とは? じっくりお話を聞きました。 【家族のカタチ #6(前編)|能登編】
天の川が頭上に輝く能登内陸の山あいで、高品質の椎茸栽培を営む日常
「街灯も家も少なくて、夜は真っ暗。夏に空を見上げれば、天の川も見えますよ」――朋子さんが暮らすのは能登半島の内陸部・能登町柳田地区。青い空と、山と田んぼの鮮やかな緑がどこまでも続きます。 金沢生まれの朋子さんがこの地で暮らし始めたのは、21年前。 夫・誠治さんとが金沢の大学に通っていた頃から4年間のお付き合いを経て結婚。勤務していた設計事務所を辞めて、誠治さんが農家の2代目として能登町へのIターンを決めたことがきっかけで、柳田に移り住むことに。 「農事組合法人のとっこ」の代表となった誠治さんは、社員やパート従業員も抱えながら、父が培ってきた椎茸栽培にいそしむ日々。その一方、結婚当初の朋子さんは別の仕事に加え、間もなく授かった長女・次女の出産や育児で大忙し! 当初、椎茸作りにはノータッチでした。 ところが、ある時期から農業に足を踏みいれることに――。 「9年前に三女を出産して数年経ち、保育園が決まったころでしたね。先代でもある義父が高齢に加えて体調を崩すようになり、思うように仕事ができなくなったんです。 私が徐々に家業を手伝い始めたのはその頃ですが、何より大きな転機になったのは、2019年。義父が亡くなり、夫が大きく気落ちしたんです。全身全霊で椎茸に向き合ってきた父親の偉大さ、相談相手がいなくなったことへの不安……様々な思いに襲われたのでしょうね、初めて弱音を吐くのを聞きました。その時ですね、『夫婦二人三脚でし椎茸作りに向き合おう』と腹を括ったのは」。 そこからの二人の本気は、確かな成果へとつながります。義父が亡くなってわずか3カ月後の2020年2月には、全国996品のキノコが集まる品評会で、『のとっこ』の椎茸が最優秀賞を受賞。それを機に、全国に名の知れた高級すき焼き店や東京の百貨店など、新規取引を次々と獲得します。 さらに、朋子さんならではの視点で新たな試みも――。 「特別興味がない人たちにしてみたら、売り場に並ぶ椎茸ってどれも同じに見えますよね。そこで『のとっこブランド』の差別化を目指して、オリジナルのロゴやパッケージを取り入れたんです。結果的に、様々な販路の拡大につながりました。 それから、『子どもたちが手軽に食べられる椎茸が食卓にあったら』という思いから、ご飯にかけて食べられる『おかずしいたけ』を開発しました。主婦ならではの目線で、ちょっとは貢献できたかな、と思いましたね」。 先代の思いに次代の感性を掛け合わせた結果、事業は徐々に上向きに。お正月をのぞき年間364日もの収穫に追われる毎日は、忙しくも、やりがいに満ちた日々となりつつありました。 そんな充実した日常の合間にようやく巡ってきた1月1日。朋子さん夫婦にとって1年で唯一の休日に襲い掛かったのが、あの能登半島地震でした。