三浦春馬さんが遺した役者としての矜持 観たかった齢を重ねた演技
齢を重ねた三浦さんの芝居、観たかった
役作りについての考え方や取り組み方は演者によっても役どころによっても異なってくると思うし、あまりキリスト教的バックボーンを勉強しても意味のない役もあるだろう。しかし主役として舞台を引っ張る三浦さんは、そうはいかなかったことと思う。牧師との間でどのようなやりとりがなされたのか詳しくはわからないので想像になるが、ドストエフスキー文学の重要なベースには聖書があり、とりわけ「罪と罰」において物語を貫く太い芯ともいえる新約聖書のヨハネ福音書の中にあるラザロの復活のエピソードについては、三浦さんは作品理解や役作りのため専門家である牧師に質問をし、助言をもらいたかったのだろう。 ヨハネ福音書は共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書とは内容的に一線を画し、どこか哲学的で解釈が難しいと考える人も少なくない。ましてラザロの復活は死んだラザロをイエスがよみがえらせる話だ。聖書がイエスの復活以外で死人のよみがえりを描く箇所は多くはなく、ラザロの復活はその代表的なもの。イエスが処刑される大きなきっかけとなった話として描かれており、難解だ。事実、大島もその取材時点ではまだラザロの復活を理解できていないといい、「ラザロという人物が誰なんだろうという、そういうところからどんどん紐解いて行かないとわからない」と話していた。英国人でキリスト教的背景を理解している演出のブリーンと、主役として作品の真髄を腑に落として表現しようとした三浦さん。「地獄のオルフェウス」以来2度目のタッグを組んだこの2人なくしては成立しなかった作品といえるだろう。 一つ一つの仕事に、常に役者としてベストを尽くしていた三浦さん。30代、40代、50代、60代……齢を重ねた三浦さんの芝居を観ることができないのは無念だ。 (文:志和浩司)