「心理的虐待を受けた経験を持つ」29歳女性が思う“献身的な母親像”への違和感…「そばに居続けることだけが愛ではない」
核家族での子育ては「母親に著しく負担が偏りすぎる」
――應武さんは核家族で子育てをすることの限界、殊に母親に著しく負担が偏りすぎることへの危惧を述べておられます。その原因はどのようなものだと考えますか。 應武:原因は複合的だと思います。1つは日本社会に蔓延する“母性神話”のようなものはあるでしょう。母親の自己犠牲の精神に支えられた家庭は多く、子どもや夫に尽くす姿こそ清いという幻想がいまだに残っています。お互いにフルタイムで仕事をしている夫婦で、立場としては変わらないはずなのに、家事・育児の負担比率が妻に偏っているときは、さも当然。一方で夫に偏っているときは世間に持て囃される。不思議ですよね。 もう1つは、「頼るのが苦手」な人が多いことです。夫婦だけで家事育児を抱え込まないために家事代行やファミリーサポートサービスが存在していますが、案外「知ってはいるけれど利用していない」という層が多いと思います。「こんな理由で使っていいのかな」という引け目があったり、「家庭内のことをアウトソーシングしてはいけない」という圧力を感じたり、また「家に人を入れたくない」「知らない人だと気を遣う」といった声も耳にします。
義母が理解のある人で良かった
――應武さんも、そうした経験がありますか。 應武:あります。「すいまーる」設立以前、義実家に住まわせてもらっていたのですが、出産後にファミリーサポートを活用して好きなバンドのライブへ出掛けました。内心、義母がなんというか怖い気持ちもありました。しかし義母はとても理解のある人で、「私たちの時代はそうした発想がなかったけど、先進的でいいね」と評価してくれたんです。あのときもしも否定的な言葉をかけられていたら、私も世の中のお母さんと同じように自分が楽しむことを諦めていた思います。
「私たちの生き方」が「他の誰かの選択肢の1つ」になれば…
――そうした「母はかくあるべし」というしめつけに染まらないために、應武さんが意識してやっていることがあれば教えてください。 應武:子どもに対して人生を楽しむ姿をなるべく見せること、そしてより多くの大人との接触の機会を持たせることでしょうか。 前者は、これから大人になっていく子どもが「大人になったら義務ばかりなんだ」とげんなりしないためにも必要だと思っています。たとえば我が家では、月に2回ずつ、特に何もなくてもどちらかが自由に遊びに行ったり飲みに行ったりする日を作っています。母親だって、ライブに行ってもいいし、野球にいってもいいし、資格勉強してもいいし、ミュージカル出演してもいいし、海外に一人旅に行ってもいいと思っています。見聞を広げるためにも必要ですし、そうしたリフレッシュが家庭に新しい風を吹き込み、健全な家庭をつくります。 後者は、閉じられた核家族において親だけの価値観を子どもに押し付けてしまわないように行っています。私は「すいまーる」設立以前もさまざまなシェアハウスで生活した経験があり、生活習慣にバリエーションはあっても善悪は存在しないことを知りました。単なる価値観の違いなのに、それを善悪で捉えないようになってほしいと思っています。 そして何より、これらを私たちの中だけにとどめないこと。我が家は“住みびらき”や宿泊でたくさんの人が足を運んでくれるのですが、こういった考えや姿勢を積極的に話すようにしています。すると「こんな風に頼っていいんだ」とか、「そんな発想はなかった」といった声があがるんです。今回の取材もそう。批判を受けることもありますが、たった1人でもこれを見て希望を見てるなら万々歳です。私たちの生き方が他の誰かの選択肢の1つになり、頼り頼られながら楽しく生きる大人が世の中に増えていったらいいなと思っています。 ===== 應武氏の話を聞いて思う。自らを雁字搦めにするものから解き放たれるのは、極めて難しい。社会と、社会に影響を受けた自分の両方からの束縛によって徐々に身動きが取れなくなるからだ。そして何より、不自由な自分を受容してしまう諦めが社会全体に沈殿していないか。 もしもその諦めの延長線上に育児があるとしたら、幸福そうにみえる不幸がそこらじゅうで萌出していることになる。世間の目線に怯え、義務感を背負いながら子どもと向き合うのではなく、フラットな状態で対峙した。付き添い拒否という衝撃の選択の裏に、應武さんなりのそんな葛藤が確かにあった。 <取材・文/黒島暁生> 【黒島暁生】 ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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