「自分こそ正義」と信じて疑わない人の心の中はどうなっているのか
哲学者の苫野一徳さんは、大学生だったある日突然、人類愛の啓示を受けて、その存在を熱烈に信じ続けた経験があるそうです。 【もっと読む】“心を燃やす”哲学者・苫野一徳さんが受けた「人類愛の啓示」の正体 苫野さんと同じように、多くの人が若いときに絶対的な愛が世界を救うと信じたり、絶対的な正義を唱えたり、あるいは世界の崩壊を願うなど、極端な思想を胸に抱きがちなのはなぜなのか。 苫野さんが、自分自身の「人類愛」を信じた体験を振り返ります。 【※本記事は、苫野一徳『愛』から抜粋・編集したものです。】
「愛」を信じ、挫折する
わたしの「人類愛」は、わたしの孤独、不安、苦悩によって生み出された反動的ロマンだった。 すなわち、満たされなさの反動によって思い描かれた、理想の世界。孤独なわたし、愛されないわたし、承認されないわたし。しかしその現実を受け入れられないわたしは、世界の真理は実は「人類愛」にこそあると考えた。人類は本来、絶対的に愛し合っている! この「人類愛」の啓示の中で、わたしは世界を愛し、世界から愛されている恍惚を味わった。 しかしその正体は、生に不満、不安を抱えるわたし自身の、反動的ロマンにほかならなかったのだ。 このことを理解したわたしは、その後しばらくして、このような反動的ロマンとしての「愛」の思想は、真面目な悩める若者に典型的な思想であることに気がついた。 たとえば、若きヘーゲル。彼もまた、二十代の頃には「愛」こそが世界を救う最後の砦であると考えていた。そしてその後、彼もまた「愛」の思想に挫折した。 この世界は矛盾に満ちている。いくつもの正義が、我こそが正義であると主張し、たがいに争い合っている。そのことに、若きヘーゲルは心を痛めた。古くはキリスト教とイスラームの、またカトリックとプロテスタントの、血で血を洗う争いがあった。近代以降においても、資本主義と社会主義の戦いや、宗教原理主義の戦いなどを、わたしたちは目撃し続けている。 これを調停できるのは、愛をおいてほかにない。二十代のヘーゲルはそう考えた。 愛は〔個別的な〕諸徳の補完である。諸徳につきまとうすべての一面性、排他性、被制約性は、愛によって止揚されており、もはや有徳な罪悪とか罪悪的な徳行とかいうものはなくなっている。なぜなら愛は、生きとし生けるすべての存在自身の生ける関係だからである。愛においてはすべての分離、すべての制限された状況は消え去っており、したがって諸徳の制限もなくなる。(ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』87頁)」 愛こそが、すべての対立を調停し統合する救いの道である。 ところがヘーゲルは、その後そのような自身の理想を打ち捨てることになる。
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