「自分こそ正義」と信じて疑わない人の心の中はどうなっているのか
自らを正義と信じて疑わない人
排他的な徳の持ち主、すなわち自らを正義と信じて疑わない者は、後の『精神現象学』では「徳の騎士」と呼ばれている。自らの正義を掲げて、その正義に従わない者を断罪する独善的な騎士。それが「徳の騎士」である。 『精神現象学』におけるヘーゲルは、これら「徳の騎士」の戦いを、もはや愛によって調停せよと説くことはない。歳を重ねるに従って、ヘーゲルは愛による救いを断念するようになったのだ(代わりにヘーゲルが説くようになるのは、知られているように「相互承認」の哲学である)。 その理由を、哲学者の西研は次のように述べている。 愛はたしかに、人々のあいだに通う「合一の感情」だ。しかしそれは二人や数人、せいぜい小集団のなかで通い合うだけで、それ以上には広がらないのではないか。つまり、愛はもともと狭い範囲にしか通用しない。 さらに、愛は所有権や法律をほんとうに「超え出る」ことはできないのではないか。たしかに、愛し合う者どうしのあいだでは権利も法律も不要になるだろう。しかし、権利と法律はあいかわらず世界のなかで働きつづけ、対立も処罰も起こりつづける。権利と法律なき世界は考えられないのだ。(西研『ヘーゲル・大人のなりかた』64頁) 愛による世界調停は、あまりに非現実的な理想にすぎないのだ。 わたしの苦悩、わたしの不安、社会の闘争、世界の矛盾……。これらの問題を抱え込んだ若者は、時に、それらを一挙に解決しうる反動的ロマンの世界を夢に見る。ヘーゲルの「愛」しかり、わたしの「人類愛」しかり。「絶対の正義」や「絶対の真理」などと呼ばれるものもまた、その一つの類型である。 「世界の崩壊」の夢想もまた、破壊的な反動的ロマンの一種である。このような苦しみに満ちた世界など、消えてなくなってしまえばいいのに……。「世界の崩壊」を願う若者は、彼岸の世界を夢見る代わりに、世界それ自体を一挙に「消去」するロマンを抱くのだ。 人類は互いに愛し合えるはずである。そのような素朴なロマン主義的人間を、青臭い青年期の思想を脱した後のヘーゲルは、『精神現象学』において「心胸(むね)の法則(のり)」として描き出している。「わたしの心の法則こそが普遍的な法則である」。 「心胸の法則」の人は、そのように自らの理想を素朴に信じようとする。若きヘーゲルも、そしてわたしもまた、この「心胸の法則」を素朴に信じる青年だった。
苫野 一徳(熊本大学教育学部准教授)
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