「内部告発者が受けた仕打ちを見て、私は自分の考えを変えた。違法な報復行為を刑事罰で抑止せざるを得ないと」…異論を排除する世の中に、奥山教授が強く警鐘を鳴らす
建前ではなく、私たちの利益のために
最近、いわゆるポリティカル・コレクトネスに連なるものとして、いわば、リベラル派が唱える建前、きれいごとの一つとして、公益通報者保護をとらえる言葉遣いを見かけることがあります。公益通報者の探索や不利益扱いを規制しようとする意見を「しゃらくせぇ」とばかりに、けなし、攻撃し、黙らせようとする圧力を感じることがあります。 しかし、公益通報者保護、内部告発者保護は建前ではありません。公益通報者、内部告発者の権利を守ることそのものが目的なのではなく、内部告発者の権利を守ることそのものよりも、その効果として、私たち、内部告発者ではない多くの人たち、すなわちパブリックの利益を守ろう、公益を守ろう、私たちの被害を防ごう、ということに内部告発者保護の目的はあります。 これは、私たちの損得の問題です。納税者としての、主権者としての、お金の問題です。身の安全の問題であることもあります。命の問題であることもあります。内部告発者、公益通報者の命の問題ではなく、自動車の欠陥や原発事故、タバコの副流煙で被害を受け、命を奪われるかもしれない私たち自身の命の問題です。
人格攻撃は人間のさがに根差す?
最近、私は、異論を唱える者を排除したい、攻撃したい、というのは人間の性(さが)なのかもしれない、と考えることがあります。 私自身、真っ向から対立する意見を見聞きすると、やや心を乱されます。そこに、傾聴に値する、正しい意見が含まれていたとしても、正直、いやぁな感情を覚えることもあります。 そのような自分自身の感情のおもむきに、私は、私という人間の心の不合理さ、自分自身の直感の頼りなさを見出すことができます。 だからこそ、何らかの規範(ルールというか、あるべき理想というか、そんなような、公に示された、こうありたい姿の形)によって、その頼りなさを補い、いやぁな感情を押しとどめ、異論に耳を傾けるようにと心を促す仕組みが必要なのだろうと思われます。ガードレールを設けて、私たち自身の振る舞いを、異論の持ち主を排除するものとならないように、ガイドしてあげる。異論を歓迎するようにと私たち自身を促して、その基本線を大きくは逸脱することのないように導いてあげる。そんな規範が必要であるように私には思われます。