もうすぐ消えてなくなる戦場体験をなんとか後世に残したい――「語らずして死ねるか!」約1800人の証言 #戦争の記憶
「私らは『故国の土を踏むまでは 白樺の肥(こやし)になるまいぞ』を合言葉に、仲間と励まし合い、とにかく生きて日本に帰るぞ、と。そうやって、今日という日をここで過ごしている。しかし、シベリアでは抑留された60万人のうち6万人が亡くなり、半数は遺骨の収容もできていない。白樺の下にお骨が埋まったままなんです。シベリアで亡くなった方々、その遺族の方々にとって、まだ戦争は終わっていない。もう、あんな愚かなことをしてはいけない」
助けてくれた男性 空襲で首から先が飛び、転がっていた
神戸市の谷口知子さん(90)には鬼気迫るものがあった。米軍による神戸空襲の経験だ。 1942年4月。小学生だった谷口さんはその日も商店街近くの石炭置き場で遊んでいた。そこに空襲の警戒警報が鳴る。おてんばだった谷口さんはキラキラ光る飛行機が見たくて、石炭の山に1人で上っていく。すると、近くの銭湯のおじちゃんに「もう飛行機が来てる、危ないから防空壕へ入れ」とこっぴどく叱られた。 「壕の中では大砲の音や飛行機の音、地震みたいな衝撃もありました。おじちゃんは外で見張ってくれてた。1時間くらいして壕から出たら……鉄兜だけが地面に転がっているんです。爆風でお風呂屋さんの煙突が倒れ、それでおじちゃんの首から先が飛ばされてて……私、うわあーっとなって。どうしたらいいか、分からなくて。鉄兜の下には脳の塊が見えた。怖くて怖くて……鉄兜のことは親にも誰にも言えなかった。『お嬢ちゃん、危ないから壕へ』と言ってくれて、おじちゃんは身代わりになってくれたんです」 谷口さんは1945年の神戸空襲でも忘れられない経験がある。3月17日、米軍の爆撃機が400機も襲来。神戸の街を焼き尽くした。疎開先にいた谷口さんは2、3日後、父を捜しに神戸の街に来る。そして地獄を見たという。 「嫌というほど死んだ人を見ました。母親は死んでいるのに『お母ちゃん、お母ちゃん』言うてる子ども。苦しかったのか、目が上を向いたまま(の遺体)。皮が剥がれて真っ赤になった人が水を求めて防火用水に集まって」