もうすぐ消えてなくなる戦場体験をなんとか後世に残したい――「語らずして死ねるか!」約1800人の証言 #戦争の記憶
ジャングルでは飢えとの闘いだ。木の根、雑草、昆虫など何でも食べた。そんなある夜、坂上さんらの野営地に日本兵が来た。痩せこけ、やっと立っている。「助けてくれ、おれもここに置いてくれ」と言う。 「でも、追い返したんです。水も食料もない。自分らだけで精いっぱいだった。翌朝、食べ物を探しに外へ出ると、何歩も行かないうちにあの兵隊が倒れていました。顔のところに家族の写真が3、4枚……。家族を思い出しながら死んだんでしょう。私らが追い返したんです。海軍の病院でやられたのと同じことを今度は自分らが……。極限状態になると、人間、本当に鬼になる」 「木に背をもたれて座り、白い歯を見せて笑っている日本兵に会ったことがあります。近づくと、白い歯は口元に湧いたウジでした。白眼に見えた部分もウジ。死体になっても眼と口には水分が残る。ジャングルでは、すぐ、そこにウジが湧く。これが戦争です。私の経験など戦争のごく一部。もっと凄惨な経験をした人はたくさんいる。『正義の戦争』なんてあるものか。戦争は全員を敗者にするんです」
極寒のシベリアで抑留、次々と仲間が死んだ
神奈川県相模原市の西倉勝さん(98)は19歳で徴兵され、ソ連国境に近い朝鮮北部へ出征した。1945年6月に関東軍に編入されたが、2カ月後に敗戦。日本の傀儡国家だった満州国は崩壊し、国境を越えてなだれ込んできたソ連軍につかまり、捕虜になった。およそ3年に及ぶ、シベリア抑留の始まりである。 「コムソモリスクという場所です。寝床は馬小屋。改築して二段ベッドに3人寝る。極寒の地なのに毛布1枚を敷き、掛け布団は2枚。食事は1日に黒パン350グラムとスープ1杯だけです。寒さと重労働に耐え、生きるのに必死だった。仲間は次々に死にました。体の弱い方、年齢の上の方から亡くなっていく。うちの収容所では最初の10カ月で25%が死にました」 道路工事、住宅建設、壁塗りなどの重労働を強制された。氷点下25度になると、土が凍り、穴を掘ることもできないが、焚き火で溶かして工事を続けるよう命令が出る。熱が出ても38度を超えない限りは休めなかった。