「本田圭佑、長友佑都たちに置いていかれたなって…」細貝萌(38歳)が引退後に初めて明かすザッケローニ監督との会話「逃げかけていた自分がいた」
一番、自分のなかで覚えている試合
タレントが集まるレバークーゼンでは激しい競争にさらされ、最初はサブに回った。それでもユーティリティ性を発揮して、ケガで離脱したチェコ代表ミハル・カドレツに代わって左サイドバックのポジションを射止める。バイエルン・ミュンヘンとの一戦で開幕9戦目にして初先発。アウェーながら勝利を収めたことで起用が続いていく。 「レバークーゼン時代に一番、自分のなかで覚えている試合」と語ったのが12年11月17日のシャルケ戦である。内田篤人と快足ウインガーのペルー代表ジェフェルソン・ファルファンという強力な右サイドを抑え、再びキッカー誌の当節ベストイレブンに選ばれている。ファルファンの映像をしっかりとチェックしてイメージを膨らませたことが奏功した。 「ファルファンは結構イライラしていて、ピッチで何度も文句を言われましたよ(笑)。でもそれって嫌がっているということじゃないですか。ウッチー(内田)が上がってこなかったので、ファルファンを止めることだけに集中できたっていう記憶がありますね。上位を争っていたその緊張感、充実感もありました。 自分のポジションの前にはドイツ代表の(アンドレ・)シュールレがいて、彼は攻撃が好きなので(攻撃に)なるべく専念させてあげたかった。それがチームのためでもあったので。簡単にボールを預けて、彼が中に入るときだけ外側を回っていくイメージでしたね」
ボランチで勝負
デュエル上等の本領発揮だった。「HOSOGAI」の名はさらに広まっていった。 だがウインターブレイク明けは、カドレツの復帰や新戦力の加入もあって再びベンチに回ることになる。リーグ3位で終え欧州CL出場権を手にしたチームに少なからず貢献してきた細貝は大きな決断を下す。アウグスブルク時代の恩師ルフカイの誘いを受け、ヘルタ・ベルリンへの移籍を決めたのだ。 決め手は、ボランチで勝負できることであった。 「レバークーゼンとは契約も残っていましたが、ルフカイ監督からは『ゼクサ―(6番)で考えている』と言われたのが大きかったですね。僕としては日本代表としてヤットさん(遠藤保仁)、ハセさん(長谷部誠)の壁を何とか崩していきたいという気持ちがありましたから」 日本代表への思い――。アルベルト・ザッケローニ監督時代の日本代表にはチーム立ち上げ以降、継続的に呼ばれてきた。優勝を遂げた2011年のアジアカップ、韓国代表との準決勝では本田圭佑が弾かれたPKに詰めてゴールを挙げるなど、しっかりと爪痕を残しつつもレギュラーの座を奪えない状態が続いていた。ヘルタ・ベルリンでボランチとして開幕からレギュラーを張りながらも、その序列が崩れることはなかった。その状況に細貝自身、クラブ重視とも受け取られかねない発言もあった。 筆者が当時ザッケローニ監督にインタビューした際、向こうから「ホソガイは」と切り出したことがあった。 <アウクスブルクに残っていれば、きっと引き続きレギュラーだった。でも最初は控えの扱いであることも承知したうえで、レンタル元のレバークーゼンに戻った。控えに回るというリスクを負いながら、ですよ。でもそこで決して腐ることなく成長を心掛けてきた結果、彼は監督の信頼を勝ち取ったわけです。これこそが、選手の持つべき姿勢なんだろうと私は思う>
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