いち早くパリに愛された髙田賢三の仕事を追う展覧会が、東京オペラシティ アートギャラリーで開催中。
2020年10月、髙田賢三がパリ郊外で亡くなったというニュースが世間を驚かせた。髙田が立ち上げたブランド〈ケンゾー〉は現在、NIGO®がアーティスティック・ディレクターを務めることで知られる。三宅一生、川久保玲、山本耀司、阿部千登勢ら、世界的に活躍する日本のファッションデザイナーに先駆けたパイオニアの功績はどのようなものか。作品を通じて、その世界観を掘り下げる展覧会が〈東京オペラシティ アートギャラリー〉で開催中だ。 【フォトギャラリーを見る】 1964年11月30日、横浜港からフランスへ向かう船内に髙田賢三はいた。海外渡航が自由化され、東京オリンピックが開催された年のことだ。それまで住んでいたマンションが立ち退きとなり、その立ち退き料を元手に髙田はフランスへ旅立った。帰国を定めることなく、やがて学生運動で揺れるパリを体感しながら創作を続けていく。「賢三さんが亡くなられたいまだからこそ、客観的な検証が必要であると感じました」と話すのは、担当学芸員の福島直だ。 「ブランドではなく、髙田賢三その人に焦点を当てる展示です。そのために年表とともに作品を展示する構成としました。良好な状態で残っている賢三さんの作品は多くありませんが、後世へ伝えるために資料性も持たせた展示です」(福島)
髙田は現地で働きながら、自身のデザイン画をブランドやブティックに売り込んだ。それが評判となり、1970年に自身の店「ジャングル・ジャップ」を開く。モデルが服を着て観客に見せるショー形式のプレゼンテーションは大きな話題を呼び、現在のコレクションショーの先駆けにもなった。髙田は店を立ち上げるために日本へ帰国し、そこで日本の布を買い集める。この時に制作した服の一点が、雑誌『ELLE』の表紙を飾った。 会場に並ぶ髙田の作品はいずれも華やかだが、姫路の花街に生まれた髙田は幼少期からそうしたものを愛した。自叙伝『夢の回想録 髙田賢三自伝』でも、「座敷から小粋な長唄や三味線の音色、芸者の嬌声がほのかに聞こえてくる。友禅、紡、縮緬……。私は和箪笥や押し入れにしまわれた鮮やかな反物や毛糸玉で遊んでいるのが好きだった」と書いている。 「賢三さんを知る方はみなさん、とても楽しい方だったといいます。わかりやすい名言や考えを多く示したわけではありませんが、最初期から身体を衣服から解放するというテーマは不変です。髙田さんが渡仏した時期はオートクチュールが一般的で、プレタポルテ(既製服)へと移行する過渡期にありました。その意味で、誰が着ても様になる服というのは非常に新しい存在だったのです。最初期に日本の布に焦点を当てたのは偶然ではなく、ヨーロッパの服作りにはない要素から衣服を見直すことに自覚的だったのだと思います。賢三さんはさまざまな国の民族衣装をモチーフとしたことで知られていますが、それらの裁断や縫製に共通項がある点にいち早く気づいています。会場では着物をモチーフとした作品も展示していますが、ある程度体型を問わずに楽しめる服とすることで衣服の自由度を高めたい、いろいろな人が素敵に着こなせる服を作りたい、との思いが生涯のクリエイションに通底していたように感じます」(福島)