古代になぜ大陸から渡来人がやってきたのだろうか?─渡来人は何をもたらしたのか?─
弥生時代のよく似た土器が、日本列島と朝鮮半島の両方から出土することから、かつてより渡来人の存在が指摘されてきた。大陸からわたった人々の一部は移住したとも考えられている。彼らは倭国にどのような技術や生活習慣を伝えたのだろうか? ■争乱の最中だった4世紀の朝鮮半島 朝鮮半島と日本列島とは、一衣帯水(いちいたいすい)などと言われ、距離が近く古代から往来があった。とくに、朝鮮半島南部と日本列島の北部九州の間にはそのことがいえる。半島から列島へ渡ってきた人々をかつては帰化人と称していたが、多くの場合、帰化するためにやってきたのではないことから現在では渡来人(とらいじん)といういい方がなされている。 渡来人は時代をとわず日本列島へ渡ってきているが、その数がとくに多い時期がみられる。 その第1波が4世紀から5世紀にかけてであり、このときは帯方(たいほう)郡周辺(朝鮮半島中西部)の人々が主に渡来したとされる。ちなみに第2波は5世紀から6世紀にかけての時期とされ、このときは、今来漢人とよばれる百済系の人々が多く渡来してきたといわれる。 渡来人が日本列島へ多数渡ってきたとみなされる第1波に相当する4世紀は、朝鮮半島で大きな動きがあった。中国が半島に植民地として設置した帯方郡(現在のソウル付近)は、高句麗の南下に苦しめられ、313年にいたってその支配下にくみこまれた。高句麗は4世紀末から5世紀にかけて好太王(こうたいおう)とその子の長寿王(ちょうじゅおう)のもとで全盛期を形成し、朝鮮半島北部を領有した。 一方、朝鮮半島の南部の状況はというと、東側に辰韓(しんかん/12国)西側の馬韓(ばかん/50余国)、南側に弁韓(べんかん/12国)といった小国家群が乱立した三韓の時代を経て、辰韓からは356年に斯盧(しろ)国が統一国家である新羅を成立させた。馬韓では、伯済(はくさい)国が345年頃に統一を成し遂げ、百済を作った。こうして、高句麗・新羅・百済の3国時代となった。一方、南側の弁韓は、4世紀後半になっても小国家分立の状況が続き、伽耶(かや)と称された。 伽耶は、初期には現在の釜山付近の金官国が有力であったが、のちには内陸の大伽耶国に勢力が移った。統一国家ができなかった伽耶は、次第に新羅や百済からの圧迫を受けるようになり、562年に最後に残った大伽耶国が新羅によって滅ぼされ、滅亡した。 ■戦乱からの逃避を求めた渡来人が上陸 このような戦乱が朝鮮各地で繰り広げられていた時代に、逃避をはじめとして、さまざまな理由から自分の国を離れる多くの人々が出たであろうことは想像に難くない。そして、その受け皿としての役割を日本列島が果たしたことも、十分に肯定できよう。事実、列島内には渡来人が生活した痕跡がみられる。 たとえば、そのひとつに奈良県の高取町に所在する市い ち尾お カンデ遺跡があげられる。 遺跡は古墳時代のもので、大壁建物跡16棟、堀立柱建物8棟などが検出されている。とりわけ大壁建物は、朝鮮半島に由来する技法とされ、市尾カンデ遺跡のものは東西14.5m、南北13mもあって、全体が把握できる例としては全国最大クラスである。ちなみに、大壁建物の遺跡としては高取町の森ヲチヲサ遺跡もあげられる。 日本列島へやってきた渡来人の多くは、文筆、出納、鉄器生産、窯業などの進歩的な技術をもっていた。そのため、ヤマト政権にとっても重要視される存在だった。 監修・文/瀧音能之 歴史人2024年11月号『日本の古代史「空白の4世紀」8つの謎に迫る!』より
歴史人編集部