「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(13)――誕生日文化と命日文化(下)
生誕紀年と没後紀年
生誕記念と没後記念という行為は、必然的に、生誕紀年と逝去紀年という年を数えるシステムの存在が前提となる。 誕生を起算年とする紀年法なのか、逝去を起算年とする紀年法なのか、あるいはそのどちらでもないのか、という視点から、これまで世界で使用されてきた紀年法を分類してみると、それぞれの文化の「ものの考え方」を反映しているように思われる。 これまで使用されてきた紀年法の中で、生誕紀年は、キリスト教紀年法と、孔子紀年法と、主体紀年法のみである。この3つの中で、孔子紀年法と主体紀年法は、いずれもこの百数十年の間に東アジアで考え出された紀年法だ。 一方、没後紀年法は、仏滅紀年法だけである。 なお、歴史上一番多いのは国王の即位紀年法であるが、キリスト教紀年法や仏滅紀年法のように、一国を越えて使用される紀年法とはならなかった。
満年齢主義の定着
誕生日文化は、誕生日が特定できなければ成立しえない文化である。また、年齢を誕生日から計算することが可能なまでに紀年文化が成熟し、社会システムが機能していなければ生まれ得ない文化である。 実は日本には、明治初期から年齢は「実年齢で計算せよ」という法律があった。そして、実年齢は、戸籍制度や徴兵制度、学校制度の整備と共に使用が始まった。 最初は、1873(明治6)年2月5日の太政官第三十六号布告である。同年1月1日をもって新たに導入された太陽暦に対応して、年齢を何年何ヶ月と数えるようにせよとの文言(自今年齢ヲ計算候儀幾年幾月ト可相数事)を記し、さらに旧暦との換算方法を説明した布告である。 明治文化研究の創始者である石井研堂(1865~1943)は『明治事物起源』(1908)の中で、「明治6年より数え年何才、満何才という2つの年齢をいう慣行が始まった」としている。この慣行は、私の経験では、1990年代まで広く行われていた。 それから29年後の1902(明治35)年、法律第五十号(年齢計算ニ関スル法律)が公布、施行された。この法律は以下の3条からなる。 1 年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス 2 民法第百四十三条ノ規定ハ年齢ノ計算ニ之ヲ準用ス 3 明治六年第三十六号布告ハ之ヲ廃止ス 第1条「年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス」では明確に、満年齢主義を指示している。しかし、日常生活においては、満年齢方式はなかなか広まらなかった。 それから47年後の1949年5月24日に法律第九十六号「年齢のとなえ方に関する法律」が制定、そして翌年に施行されたことがこれを物語っている。 この法律の第1条では、「この法律施行の日以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律(明治三十五年法律第五十号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない」としている。 冒頭に書いた、戦後の小学校ホームルームにおける「ハッピー・バースデー」は、満年齢主義の定着に、ことのほか大きな影響力を持った。これ以降、若い世代を中心に、満年齢が広く使用されるようになった。 満年齢という考え方の前提にある、「一人一人が自分の誕生日を持つ」という誕生日文化の導入こそが、この満年齢主義の基盤となったのである。 誕生日文化の導入後も日本は、命日文化を大切に維持している。人に対して生前も死後も個人としてリスペクトする文化は、もしかしたら、世界中で日本だけかもしれない。