完璧だった母が認知症になり、90代半ばで家事を始めた父「これからはわしが、おっ母に恩返しする番じゃ」
映像ディレクター・映画監督の信友直子さんによる、認知症の母・文子さんと老老介護をする父・良則さんの姿を描いたドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』は大ヒット作品に。そして母・文子さんとのお別れを描いた続編『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~』の公開から2年半、104歳になった良則さんは、広島・呉でひとり暮らしを続けています。笑いと涙に満ちた信友家の物語から、人生を振り返るきっかけを得る人も多いはず。そこで、直子さんがその様子を綴った『あの世でも仲良う暮らそうや』から、一部抜粋してご紹介します。 【写真】若かりし頃の母。ひょうきん者でした * * * * * * * ◆相性の良かった両親 母・信友文子に認知症の症状が出始めたのは、2013年頃のことでした。 父の良則は当時、もう90代半ば。一人娘の私は東京でテレビディレクターをしていたので、両親は長らく二人暮らしでした。 母の異変を受け、私は悩みました。 「お父さんはどうせ何もできないだろうから、私が仕事をやめて実家に帰るべき? 介護サービスに頼れば何とかなるのかしら? それとも施設にお願いするしかないのかな……」 そう、最初のうち私は、父を全くアテにしていなかったのです。父はそれまで、家事なんてまるでやったことのない人でしたから。 昔からずっと、信友家の主導権は母が握ってきました。母は社交的で明るく友達の多い人。一方、父はおとなしくて本ばかり読んでいるインドア派。全く性格の違う二人でしたが、不思議と相性は良かったのです。 というより、シャイなイケメンの父に母がベタ惚れだった、と言った方が正確かもしれません。とにかく母は父に、徹底的に尽くしていました。
◆母は完璧なスーパー主婦だった それまでの父は、大げさでなく本より重いものを持ったことがなかったと思います。力仕事も含め、すべて母がやっていましたから。 たとえば私が小さい頃、ウチは五右衛門(ごえもん)風呂でしたが、燃料の薪(まき)割りから風呂焚(た)きまで、すべて母の仕事でした。 父が一番風呂に入ると、母が背中を流してあげます。湯上がりには母の用意した着替え一式を、父は順番に着ていくだけ。着るものも下着まで全部母の手作りで、どれもが小柄な父にピッタリでした。 父からすると、自分は何もせずに座って本を読んでいるだけで、生活は何の支障もなく、つつがなく回っていたのです。言葉を変えれば、それだけ母が完璧なスーパー主婦だったということです。 そんな母は当然、私の憧れでした。話もおもしろい人でしたから、私は帰省しても母とばかり喋り、おとなしくて存在感の薄い父のことはほとんど無視でした。「お母さん、頼りになるわあ」と思った経験は山ほどありますが、「お父さん、頼りになるなあ」は一度もなかったと断言できます。
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