本屋にして福祉事業所「ててたりと」。「利用者」がつくる、とりたてて意味のある場所
弟の死をきっかけに精神保健福祉士に
竹内さんは、1972年に長野県須坂市で生まれた。子供の頃は地元駅前の平安堂という、長野県一帯に店を持つチェーン系本屋をよく訪れていたという。本が好きだけどジャンルにこだわりはなく、10代の頃は校内で流行っていた氷室冴子など、少女向け小説が多いコバルト文庫まで触手を伸ばしていたと、竹内さんははにかんだ。 「本も好きだけどバレーボールも好きで、中学はバレー部に入っていました。卒業後は東京の大学に行こうと思っていたけれど、とくに何を専攻したいという目標もなくて。日本大学の付属高校にいたのでそのまま日大に進学しましたが、『卒業後は長野に帰ろうかな』と、漠然と考えるにとどまっていました」 竹内さんはまさに団塊ジュニアのど真ん中世代で、大学の受験倍率が今では考えられないほど高く、地方の私大でも20倍なんてところもあった。そんな時代に現役で入学したのだから、さぞや明るい大学生活を送れたのでは? 「それが大学に入った直後にバブルが崩壊して、卒業する頃にはすっかり就職氷河期になっていました。だから就職活動は本当に大変だったのですが、地元紙の信濃毎日新聞社系列の印刷会社、信毎書籍印刷に入社が決まって。書籍を専門に印刷する会社の東京支社で、営業として働くことになりました」 担当していたのは、私が番組制作会社を辞めたのちに在籍していた、情報誌を発行していた出版社だった。同じ時期に同じ場所にいたのだから、絶対どこかですれ違ってますよね? とはいえ1年と少しでまた辞めてしまった私と違い、竹内さんは約10年勤めて転職し、食品会社の営業やコールセンターのマネージャーとして働くことになった。 竹内さんが帰郷した理由のひとつに、大学を卒業した頃に1歳年下の弟が統合失調症を発症したことがあった。統合失調症は約100人に1人、多くが35歳頃までに発症し、適切な医療ケアや家族の支援が欠かせない病気だ。実家から離れている間に父が亡くなり、母も高齢になり、成人男性のケアを引き受けるには体力が心もとなくなっていたが、川口市内に家を構えていた竹内さんは、弟と積極的に関わる機会を持たないままだった。 そんなある日のことだ。 「弟が亡くなったと母から電話があったんです。帰省して、弟の遺したものを整理したのですが、とにかく手続きなどやることが多くて。いろいろと手を焼いていた時に精神保健福祉士の人と出会い、福祉の仕事に興味を持つようになりました」