全国で50万人が犠牲に 1945年、東京から始まった無差別空襲
1945年3月10日未明の東京大空襲。たった数時間で10万人が亡くなったとされています。それまで米・英をはじめとする「連合軍」は日本軍の軍事施設を主な標的としていましたが、同空襲を皮切りに、数多くの都市をしらみつぶしに攻撃するようになりました。広島・長崎への原爆投下を合わせると死者数は50万人ともされています。75年前、日本はどのような被害を受けたのでしょうか。
太平洋戦争は、1941年12月8日に日本軍が米ハワイ真珠湾などを攻撃したことで開戦しました。しかし、「勝利」は長く続かず、次第に防戦一方の状態となります。
最初の空襲は開戦5か月後
日本への最初の空襲は、開戦からわずか5か月の1942年4月18日のことでした。米軍は、陸軍の双発爆撃機B25ミッチェル16機を空母ホーネットに乗せて日本近海に近づけて発進させて、東京、横浜、神戸など大都市に爆弾や焼夷弾を投下、その後中国大陸に向かわせました。指揮官の名前から「ドゥーリトル空襲」と呼ばれています。
日本側からすれば、意表を突かれた作戦でした。連戦連勝に沸く日本社会に冷水を浴びせました。この空襲は「米軍が反撃した」ということを米国内で印象付け、士気を高めることが目的でした。標的は、軍事施設に限らず、学校など一般市民の生活の場も含まれ、小・中学生など市民が命を奪われ、日本側は米国への憎しみをたぎらせました。
米軍、大型爆撃機B29を開発
米軍は戦中、ドイツや日本を戦略爆撃で屈服させるために大型の爆撃機B29を開発していました。そして、1944年6月、B29の編隊を中国四川省成都から発進させて、福岡・北九州を空襲しました。
日本本土への攻撃は、B29のような大型爆撃機だけでなく空母機動部隊から発進させた艦載機でも行われました。
制空権を奪われる
1944年6~7月にかけてマリアナ諸島を陥落させた米軍は、すぐに飛行場をサイパン、テニアン、グアムに整備しました。これで、日本列島のほぼ全域がB29の攻撃範囲に入ったのです。 同年10月10日、奄美から沖縄の南西諸島一帯を延べ1400機もの連合軍の艦載機が、日本軍の軍艦や主要都市に対して繰り返し攻撃を加えました。特に、沖縄・那覇市街地に対しては激しい爆撃と機銃掃射が加えられ、中心部は壊滅しました。いわゆる「10・10空襲」です。日本軍は、ほとんど反撃できず、南西諸島における制海・制空権を日本側が失っていたことが明らかになりました。