【光る君へ】赤染衛門の出生をめぐる衝撃的なスキャンダルとは? 夫を支え続けた賢妻の生涯
NHK大河ドラマ『光る君へ』の第34回「目覚め」では、まひろ(藤式部/演:吉高由里子)が中宮彰子(演:見上愛)のもとで『源氏物語』の執筆を進め、やがて物語が宮中の人々に広まっていく様子が描かれた。彰子のサロンで先輩女房として登場しているのが、赤染衛門(演:凰稀 かなめ)だ。娘時代には彰子の母、源倫子(演:黒木 華)らの教育係のような役割も担っていた。今回は大河ドラマでも初期から登場している赤染衛門の生涯をご紹介する。 ■実の父親はどちらか? 赤染衛門出生時のスキャンダル 女房たちの生まれた年はわからないことが多いのですが、ご多分に漏れず、赤染衛門も不明です。しかし、状況証拠から、天延元年(957)ごろと推定されています。したがって赤染衛門が清少納言、紫式部、和泉式部よりも年長であることは確かです。『紫式部日記』の赤染衛門評が基本的に好意的であるのも、幾分かは年長者への敬いの思いがあったのでしょう。 元々、赤染衛門は道長の妻となる源倫子に仕え、教育係を任せられていたようです。その後、倫子の娘の彰子にも仕え、紫式部や和泉式部の同僚になりました。 赤染衛門は赤染時用の娘とされていますが、出生をめぐってのスキャンダルが伝えられています。「自分が本当の父親だ」と検非違使庁に訴えた人がいたのです。その人とは歌人として有名な平兼盛でした。赤染衛門の母は元々、兼盛の妻だったのですが、その後、時用の妻になりました。時用の妻になってすぐに生まれた子であったので、兼盛が自分の子だと考えたのは一理あります。 兼盛は自分に子を渡すように求めましたが、赤染衛門の母は夫時用が検非違使の役人であることを利用し、時用に頼んで、兼盛と結婚時から、今で言う不適切な関係にあったと証言してもらいます。我が子と離れたくない母の機転だったのでしょう。それに乗った時用も情に厚い人だったのかもしれません。兼盛の我が子の引き取りはうまく行きませんでした。今だったら、DNA鑑定に持ち込まれるような案件ですね。 この話は『袋草子』に載っています。後世の著作であり、またゴシップ的な内容なので、根も葉もない話の可能性もあります。しかし、元々は曾孫の大江匡房の著作(今は伝わらない『江記』)に基づいたと書かれているので、この話には一定の信憑性があると考えられています。また赤染衛門も実父が兼盛であることを知っていたのではないかとする見方もあります。確かに、後年、成長した赤染衛門に、この裁判沙汰が耳に入ったと考えたほうが自然なようにも思います。 赤染衛門は高名な歌人の血が流れていることに密かに自負心を抱いていたかもしれません。ただ自分に愛情を注いでくれた養父への感謝の念も持ち続けていたのではないでしょうか。そもそも赤染衛門という女房名は、時用の赤染氏とその官職・右衛門志(さかん)・尉(じょう)に拠るものでした。 赤染衛門は20代前半頃に、大江匡衡(まさひら)の妻になりました。匡衡は代々学者の家の出身で、一条天皇や第一皇子・敦康親王の侍読をつとめるなど、第一級の学者として広く認められていました。 しかし、匡衡は『今昔物語集』に拠ると、背が高く、怒り肩で、風采はまったく上がらなかったようです。そのような外見も影響していたのでしょうか、若い頃の赤染衛門は同じ大江家の大江為基と和歌の贈答をするなど、他の男性に心惹かれたこともあったようです。結婚生活を重ねていく中で、だんだん夫婦仲は深まり、おしどり夫婦と言われました。2人の間には、挙周や江侍従が生まれています。赤染衛門は後年、歴史物語『栄花物語』を執筆(編纂)したと言われていますが、そのような学識は、この夫から学ぶところが大いにあったことでしょう。 ■紫式部も書き残したおしどり夫婦 夫婦の関係を示す逸話を一つ(『十訓抄』)。 この時代は官職を辞職する際には天皇に上表文を提出することになっていました。上表文は美辞麗句を連ねた漢文が常で、専門の漢学者に依頼していました。この時代を代表する才人で名門の出である藤原公任は中納言を辞するにあたり、先に高名な漢学者2名(紀斉名・大江以言)に依頼していましたが、公任はその出来が気に入らず、お鉢が匡衡にまわってきました。匡衡がプレッシャーで悩んでいると、妻の赤染衛門が公任はプライドの高い人だから、もっとその家格の高さや今の不遇を強調して書いてみたら、と勧めました。その勧めに従って、上表文を作ったところ、公任はとても喜んだというのです。 赤染衛門の人を見る眼の確かさと、今で言う、共稼ぎ夫婦の連携プレーを見るようですね。そういえば、清少納言も『枕草子』の中で、宮仕え女房を奥さんにすると、宮中に精通しているので役に立つと述べていました。 『紫式部日記』の中で、紫式部は赤染衛門のことを道長や中宮彰子の周辺では「匡衡衛門(まさひらえもん)」と呼んでいると書いています。仲睦まじさを示す、ほほえましいあだ名と捉えられることも多いのですが、当時の宮仕え女房は、自分の親族を良いポストにつかせようと、主人に売り込むことも多かったようです。 つまり、選挙演説さながらに夫の名前を連呼していたためについたあだ名とも考えられます。そうだとすると、紫式部は和泉式部を「けしからぬかた」と男性遍歴を述べたのと同様に(この連載の「和泉式部」の回で触れました)、赤染衛門に対しても皮肉な一言を書いたことになります。紫式部を意地悪な人に見すぎているという声も聞こえてきそうですが、「匡衡衛門」というあだ名を今一度考えてみましょう。夫の名前で呼ばれるというのは、夫婦一体を強調し、その良妻ぶりをほめているように見えたとしても、実態はほめ殺しに近いのではないでしょうか。夫(おっと)のアピールが日ごろ凄い、いかにも良妻という人に対して、「いいんだけど、ちょっとやりすぎじゃない?」という見方が周囲から出てくるのも、これはこれで自然なことのような気がするのです。 赤染衛門は、長和元年(1012)夫匡衡に先立たれた後も30年以上生きて長寿を保ちました。晩年、家(歌)集を藤原頼通から求められるなど、和歌の達人としての評価は不動のものがありました。いつ亡くなったのかは、これも他の宮仕え女房たちと同様に、わかっていません。 <参考文献> 上村悦子『赤染衛門』(新典社) 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸