「津波は逃げるが勝ち」被害を繰り返さないために伝え続ける言葉 地域に根づく避難意識 三重・尾鷲市
11歳のときに被災した山西敏のりさん=尾鷲市(三重テレビ放送)
今年は、昭和東南海地震の発生から80年です。当時を知る人が年々少なくなる中、津波で家族と家を亡くした男性に話を聞きました。 「頭が真っ白になったことを、今でも覚えています」11歳のときに被災した山西敏のりさんが、当時のことを語りました。 1944年、太平洋戦争末期。津波が町をのみこみました。熊野灘を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震、昭和東南海地震が発生しました。 県内の死者、行方不明者は406人。さらに、尾鷲市では最大9メートルの津波に襲われ、多くの人が亡くなりました。 震源から程近い、尾鷲港の近くに住んでいた山西さんは当時、現在の尾鷲小学校の6年生で、授業を受けていた時に地震が発生しました。その時について山西さんは「教室に行ったら壁や黒板が落ちていて、カバンを持って、南の校門のところまで来たら、女の人の”津波が来るぞ”という声を聞いて、高台の中村山へ避難しました」と、地震直後の様子を語ります。 無我夢中で避難して頂上に着いた時、これまでに見たことのない景色が広がっていました。「川を津波が上がってくるのが見えました。潮が引いて海の底が見えました」山西さんは津波の勢いを絵にかいて説明します。 それから2時間半後、自宅に戻った時、そこには家はありませんでした。当時、自宅のあった場所で山西さんは「津波の前は、ここに2階建ての家があった。町をさかのぼって200mくらいのところまで家が流された」と被害について語りました。 家を失った小学生。 失ったのはそれだけではありません。最愛の家族を失いました。 山西さんは「父と母が津波に流されて、家の近くで死体になって分かった。家が流される、両親もいない。6年生の小さいときに、地震の経験をして、当時は頭が真っ白になっていた」と、その時の辛さを吐露しました。 近いうちに発生すると言われている南海トラフ地震。発生から80年。昭和東南海地震を知る人が減る中、山西さんには強く訴えかけていることがあります。それは「海岸の近くの人は大きい地震が起きたら『津波は逃げるが勝ち』」という言葉です。 山西さんの思いは多くの場所に広がっています。市内には「津波は逃げるが勝ち」の横断幕が掲げられているほか、山西さんが通っていた尾鷲小学校には、山へと続く通路ができました。 子どもたちが「命の架け橋」と呼ぶ橋、尾鷲小学校の児童は「地震の時に命をなくすかもしれないから、すぐに高台の中村山に行きたい」と、山西さんの思いを引き継いでいます。 「津波は逃げるが勝ち」津波で家と家族を失った山西さん。被害を繰り返さないために、山西さんは伝え続けます。