世界標準の性能ながら生産力と補給の不足に泣いた【91式10cm榴弾砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 第1次世界大戦におけるヨーロッパの苛烈な戦場では、陸戦の主役となったフランス軍もドイツ軍も、ともに75mm級と105mm級の野砲を師団レベルの部隊で多用した。特に火砲の場合、口径が105mmを超えてくると、砲の重量などの点で当時の馬による牽引(けんいん)では機動力が極度に低下し、砲撃の準備や陣地からの撤収にかなりの時間と労力が求められたからだ。 日本陸軍は、ヨーロッパでの陸戦こそ経験しなかったが、連合国側の戦訓をひもといて、従来から保有する75mm野砲より上位の野砲(やほう/軽榴弾砲)の必要性を認めた。しかし当時の同陸軍には、このクラスの火砲についての経験が不足していた。 そこで1924年、フランスのシュナイダー社に対し、のちに75mm90式野砲となる75mm野砲と同時に、105mm軽榴弾砲の開発を発注した。同社は、当時のヨーロッパでは屈指の兵器メーカーであると同時に優秀な火砲を生み出すことで知られており、日本陸軍はかなりの期待を込めていた。 完成した試作砲は1930年末に日本に到着し、各種の試験に供された結果、かなり優秀な砲であることが判明した。そこで1933年に91式10cm榴弾砲として制式化。国内での生産に先立ち、シュナイダー社において300門が生産された。 名称こそ91式10cm榴弾砲ながら、実際の口径は105mmである。弾薬は、砲弾を分離して発射薬の増減が可能な薬莢(やっきょう)を備える半固定弾で、閉鎖機は水平鎖栓式。どちらも同時代のドイツの10.5cm leFH 18やアメリカの105mm榴弾砲M2シリーズと同様であり、最大射程も約11000mと同等であった。 部隊への配備は1936年頃から始まったが、前年の1935年には、車両牽引式の機動91式10cm榴弾砲も制式化されている。総生産数は91式10cm榴弾砲が約1000門、機動91式10cm榴弾砲が約100門で、太平洋戦争における日本陸軍の主力軽榴弾砲を担った。 既述のごとく性能面ではM2シリーズに遜色なかったが、同シリーズは牽引型だけで第二次世界大戦中に約8000門以上生産されており、当然ながらその門数に見合った弾薬の供給も行われていた。 一方、91式10cm榴弾砲は限られた門数、限られた弾薬という悪条件下で善戦し、アメリカ軍のM4シャーマン戦車やLVT水陸両用車との対戦車戦闘でも戦果を得ている。とはいえ、砲を活用するには潤沢な弾薬の供給が不可欠であり、そのためには高い生産力と大きな補給能力が求められた。ゆえに「デモクラシーの兵器工場」を自負するアメリカが相手では、局所的な戦果はあげられたとしても、日本にとって勝利は程遠かった。
白石 光