徳川家康と豊臣秀吉の歴史的評価は明治維新のタイミングで家康はマイナス、秀吉はプラスへ変化した⁉
信長は怖い支配者、秀吉は人たらしの処世術に長けた人物など、現在に伝わっている偉人の評価は当たり前のように流布しているが、実はこういった評価やイメージも時代時代で違っているのだ。 ■時代によって変わる歴史や偉人の「評価」 歴史や偉人の「評価」は時代によって変わる。それは、「評価」するのが人間だからである。その人が置かれている時代状況によって、歴史や偉人の「評価」は違ってくる。ここでは、まず、その最もわかりやすい例として徳川家康を取り上げたい。 周知の通り、徳川家康は江戸幕府の創始者として崇め奉られてきた。亡くなって東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神号まで贈られ、「神君家康公」とよばれていた。もちろん、江戸時代、家康の伝記が多数書かれることになるが、いずれも家康の偉業をたたえるものばかりだった。 それが一変するのは明治維新である。幕府を倒した薩摩藩・長州藩の人間が政治の実権を握るや否や、それまでタブーだった家康批難の論調が表に出てくる。いわゆる薩長史観による家康像が神君中心史観に取って代わり、「狸おやじ」とまでいわれるようになる。 それだけではない。明治以後、大日本帝国が朝鮮・中国へ大規模な大陸進出政策を押し進めていく過程で、いわばその輝かしい先駆者としての豊臣秀吉がクローズアップされ、秀吉をもち上げる半面、家康をけなす論調に代わっていった点もみておかなければならない。 この点は、戦前と戦後で違っている。戦前、歴史の研究の主な担い手は軍人と政治家だった。軍事史研究が中心で、どうしても対外侵略を是とする歴史観が大手を振っていた。ようやく戦後になって正常な歴史研究ができるようになったのである。 そうした歴史研究の流れを踏まえ、戦後、山岡荘八・司馬遼太郎などの歴史小説の登場となり、それが日本人の歴史認識へ大きな影響を与えることになる。特に、戦国と幕末の偉人たちの認識が大きく変わることになった点は軽視できないように思われる。 監修・執筆/小和田哲男 歴史人2024年7月号『敗者の日本史』より
歴史人編集部
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