「引き揚げ」世代最後の親睦会「安東会」と東京で味わう現代満洲料理
さる11月18日、東京・四谷で「安東会」なる親睦会が開催された。結成が昭和31年(1956年)という歴史のある会で、筆者に届いた案内の手紙には次のような文面が記されていた。 〈安東会を振り返りますと、昭和31年4月29日新宿御苑で開催され、親睦・互助・友愛を期して発足されて以来、今年で67回の大会開催となります。戦後79年が経ち、安東会会員の皆様には亡くなられた方が多く、減少傾向にありますが、今なお、満州・安東のご縁を大切にされ、『満洲への愛……! 安東愛……! 安東熱……!!』は変わりませんとの声が届けられております〉 ここでいう「安東」とは、中国遼寧省丹東市の戦前の呼称である。安東会は当時この地で過ごし、敗戦の翌年に日本に引き揚げてきた、現在80代から90代の人たちが毎年開催している交流会だ。 ◾️「引き揚げ2世」の集まりへと変遷 昭和20年(1945年)8月15日の日本の敗戦を、かつて日本が建国した満洲国の北朝鮮国境に位置する鴨緑江沿いの町である安東で迎え、翌21年5月に始まった遼寧省南西部の葫蘆島から集団帰国をするまでの期間、この町で抑留生活を送っていた人たちだ。 葫蘆島は20世紀初頭、大連を始点とする南満州鉄道に対抗し、中華民国の軍人で政治家の張学良が建設を進めた、渤海湾に面した港湾都市だ。昭和21年(1946年)から昭和23年(1948年)にかけて、現地に残された日本人居留民約105万人が、葫蘆島の港から引揚船に乗って博多港などへ帰還している。 筆者はある縁で5年前から安東会に出席させていただいている。この会に集まる人たちはとても元気で個性的な皆さんだ。毎回さまざまな人たちが登壇し、自身の安東との縁や家族の思い出話とともに、丹東(安東)を訪問した際の現地報告などが語られる。 今回、印象的だったのは、宮崎県在住の吉田泰子さん(90歳)が、自身が通われた安東大和小学校の校歌をマイク片手に歌い出したことだった。 「さくら花咲く 錦江山 やまと心をそのままに みことかしこみ 朝夕を 仰ぎつとめん ひたぶるに わが学び舎 安東大和 やまとうるはし その名あぐべし」(安東大和小学校の校歌より) 吉田さんは、敗戦当時小学校6年生で、「安東から鴨緑江をポンポン船に乗って下り、仁川まで逃れ、米軍艦船で佐世保に引き揚げた」という。『ペチカ』や『待ちぼうけ』などで知られる、当時満洲で発行されていた唱歌集の歌曲である「満洲唱歌」が好きで、歌い出すと止まらないのだそうだ。 安東会では、毎年会員誌「ありなれ」を発行してきた。同誌に掲載されるのは、会員による満洲や安東の思い出、引き揚げの苦労に加え、歴史資料を読み解いたジャーナリスティックな論考など多彩な内容だ。今回、東京八王子在住の石川武郎さん(86歳)は、創刊号から最新の68号までの記録を、自身のいう「電子紙芝居」としてスライドショーで報告した。 その報告からわかるのは、結成当初は敗戦から10年、引き揚げ後、日本での生活に苦労された、いわば「引き揚げ1世」の「親睦・互助・友愛」の集まりだったものが、2000年前後から、親である世代に連れられ帰国した「引き揚げ2世」の集まりに引き継がれていったという経緯だ。