「たかが選手が」渡辺恒雄氏を追い詰めた“失言”の背景、球界のドンはプロ野球をどう変えたのか
読売新聞のドン、渡辺恒雄氏が亡くなった。98歳。読売新聞社の発表によると、11月末まで定期的に出社し、役員会や社論会議に出席していたが、12月に入って体調を崩し、都内の病院に入院していたといいい、19日午前2時、肺炎のため死去した。 【画像】「たかが選手が」渡辺恒雄氏を追い詰めた“失言”の背景、球界のドンはプロ野球をどう変えたのか 新聞人でありながら政界に強い影響力を持ち、読売新聞の社論をけん引してきたことは改めて説明するまでもない。スポーツ界にも、プロ野球界の「盟主」を自任する読売巨人軍のトップとして強力な個性で影響力を発揮してきた。しかし、それだけの偉大な存在でありながら、スポーツマスコミに発した「ひと言」で、世論の猛反発を受けることになった。 プロ野球界の再編に向けた大きなうねりが渦巻いていた今から20年前の2004年8月、球団統合による球団数の削減に反対したプロ野球選手会代表がオーナー側に話し合いを求めたことに対し、「たかが選手が」と拒絶した言葉が独り歩きした。 当時筆者は運動部の取材現場を離れ、スポーツ担当論説委員としてプロ野球界の外側から球界再編騒動を見守っていた。渡辺恒雄を略した「ナベツネ」の剛腕ぶりは運動部記者時代から良く知っている。巨人軍のオーナーとして球界再編問題でも辣腕を発揮するのだろうと思っていた矢先のことだ。 この発言がマスコミで大きく取り上げられたことで、球界再編問題は大きく流れが変わっていく。歴史的な「失言」はどんな状況下で生まれたのか。時代を少し遡って背景を振り返ってみたい。
「1強11弱」
筆者が運動部記者としてプロ野球の取材を始めたのは1980年。当時、同じプロ球団でありながらセ・リーグとパ・リーグとでは集客力に大きな差があり、収益面でもリーグ間に大きな隔たりがあった。 格差を生んでいたのが「テレビマネー」だ。当時、テレビは地上波放送しかなく、プロ野球中継は巨人戦が中心で、パ・リーグの試合がテレビ放映されるのはまれだった。 巨人以外のセ5球団は年間13試合の巨人戦の放映権料(1試合約1億円)を貴重な収益源に何とか黒字を計上している状態だった。セ・リーグ内は「1強5弱」、球界全体は「1強11弱」の状態が続いていた。 巨人戦がもたらすテレビマネーのおこぼれが欲しいパ6球団は、公式戦でセ・パのチームが対戦する「交流戦」の実現をセ側に要望するが、セ5球団は巨人戦を減らしたくないから完全拒否。両リーグの主張はいつまでたっても平行線をたどっていた。 こうした中、巨人の「やりたい放題」が続いた。象徴的なのが1973年の「江川騒動」だ。球界の憲法ともいえる野球協約上の不備を突いてドラフト会議前日に、前年のドラフトでクラウンライター(後の西武ライオンズ)が1位指名していた江川卓投手と単独契約。この契約が連盟から無効と判定されると巨人はドラフト会議をボイコット。事態を収拾したい巨人寄りのコミッショナーは、阪神が交渉権を獲得した江川と、巨人のエース小林繁投手との異例のトレードを承認して巨人の江川獲得は成功する。